1957年、池田先生は、ある未入会の青年を紹介されました。
彼はハーバードや東大で医学を研究し、33歳の若さで日本初の甲状腺専門医院の副院長を務める超エリートでした。
しかし、彼には友人が1人もおらず、人生に悩んでいました。
先生はその場で友人となることを提案、この青年と、医学をはじめ様々な対話を続けました。
先生は入信を勧めたわけではなかったのですが、先生の人柄に触れた青年は、その年に自ら法華経に帰依します。
この青年こそ、欧州広布の先駆者・山崎鋭一初代欧州議長なのです。
やがて山崎青年は研究のためパリに渡ります。
37歳の時、先生は彼を初代ヨーロッパ総支部長に任命します。とはいえ、当時は欧州全体でも法華信徒は8人だけでした。
山崎青年はフランス語で日蓮仏法のパンフレットを作成し、地道に座談会を重ねていきました。
やがて彼はエリート研究者としての輝かしいキャリアを捨て、フランス創価学会の職員となる道を選びます。
パリ会館の管理者室に、奥様と寝泊まりしていました。質素な生活は、生涯続きました。
池田先生は山崎議長に車をプレゼントされ、議長夫妻はその車で欧州全土を折伏に駆け回りました。
大事故を起こしたこともありましたが、車が頑丈だったので九死に一生を得ました。
先生は、御家族のいる日本に帰国してはどうかと、山崎議長に勧めたことがあります。
しかし議長は、欧州広布に生涯を捧げる覚悟を固めており、先生ですらその気持ちを変えることはできませんでした。
なお、池田先生とローマ法王との会見実現にも尽力しています(宗門の反対で実現せず)
山崎議長は2000年に逝去されましたが、今や欧州には13万の地涌の陣列が続いています。
欧州広布が、師弟の対話から始まった歴史を、われわれは永遠に忘れてはならないでしょう。