2002年12月5日本部幹部会での池田先生指導より
私は、その対談相手とは、会いたくなかった。しかし、記者への義理もあり、対談をした。
彼は、自分の政界や社会の名声だけを考え、こちらには言わせないようにしながら、勝手気ままに気取りながら話を進めていった。
私は会ったことを今でも後悔している。
対話というのは、対等の人格者として、平等でなければならない。
池田大作全集77 432頁より
つまらぬ言いがかりにいちいち付き合って、煩わされる必要もない。
真摯な対話を求めてくるのならともかく、最初から仏子を苦しめ、揚げ足を取ろうととして近づいてくる邪な論議に、振り回される必要はない。
池田大作全集70 294頁より
怨みや憎悪の感情に支配された愚かな人の言動は「暴力」のようなものである。
どれほど理をつくして正論を説いても、冷静に聴きいれることはできない。
ゆえにそうした相手と同じ次元で議論することは無意味であり、むしろ自身の立場を卑しめてしまう。
池田大作全集69 535頁より
山崎某や内藤某らが、さかんに悪意の攻撃をし、事実でなければ「聖教新聞」などで反撃すべきではないか、とうそぶいていた。
しかし、私は弁解も反撃もしなかった。
彼らの企みは分かっていた。
われわれが反撃をすればするほど、世間の注目を浴びて自分たちが有名になり、本が売れるとの作戦であり、計算だった。
低次元の者と争っても仕方がない。
大聖人は、湯治のついでに訪問してきた人物を、会わずに追い返されています。
こちらに敬意を払わない相手と対話する必要などありません。
媚びた態度をとれば、法を下げることになってしまいます。
ネットであれば、ためにする荒らしコメントをいちいち相手にしないのと同じです。
日本中のバカを相手にしていれば、いくら時間があっても足りません笑
かの足軽会3人組は、会長が対話に応じてくれなかったことを批判していますが、それは会長が彼らと対話するに値しないと判断したからです。
全ての対話要望に応じることなど、物理的に不可能に決まっています。誰でも、誰と対話するか選ぶ権利があり、合意できた場合のみ実現するものです。
社会人として最低限のルールすら守れていないからこそ、相手にされなかったのです。
また、聖教や創価新報で彼らの敗訴が確定するまで報じなかったのも、それがかえって足軽会の宣伝になる恐れがあったからです。
嫌いな相手を無理に愛そうとするのはキリスト教です。偽善です。
悪に対しては断じて甘やかさず、毅然と対応することが仏法なのです。