御金言には「悪を滅するを(功徳の)功といい」とあります。
折伏は必ず謗法払いから入ります。謗法を捨てずに南無妙法蓮華経を唱えても功徳はありません。
廃屋は、一度更地に戻さなければ、新築を建てることはできません。
仏法では、「邪悪を攻め滅ぼす」ことが、全てに先立つのです。
悪に対しては徹して攻撃的でなくてはなりません。受け身ではなく、自ら邪悪を見つけて滅ぼしていくんです。警察がパトロールするのと同じです。
功徳を実感できない場合は、ここができていないケースが最も多く見られます。
題目を唱えるだけならば臆病者にもできます。しかし悪を攻めるには臆病心を捨てる必要があります。ここは決定的な違いです。
いろいろ理屈をつけて破邪の闘争を避けているのは、結局は第六天魔王に屈した姿です。
自らの臆病を棚に上げ、功徳がないのを御本尊のせいにしているのでは、罰の人生になって当然です。
三千大千世界に、臆病な仏などひとりもいないのです。