提婆達多は
・1日1食を守り、午後は食事を採らない
・屋根の下や樹の下に座らない
・塩や乳を口にしない
などといった厳しい戒律の導入を釈尊に求めました。
必要以上に厳しい戒律は外道の苦行に等しく、寿命を削ってしまいます。
釈尊は当然ながらこの申し出を却下します。
しかし提婆達多はそれを逆手に取り、「釈尊は堕落した」と吹聴します。
そして、新弟子500人をだまして教団を離れたのです。
このように天魔の遣いは、苦行を推奨して、自らが厳格な修行者であることを喧伝し、仏に攻撃を加えます。
こうした天魔にだまされると、仏法と苦行の区別がつかなくなり、信心に励んでいるように見えても、実際には外道の修行に打ち込んでいることになってしまいます。
10時間唱題などは、まさにそれですね。
いつから「10時間続けないと功徳が無い」ことになったのでしょうか?
熱心なようでいて、実際は1遍の題目を軽んじていることになり、まさに大謗法です。
長時間の題目に固執する幹部は、だいたい提婆達多です。祈りがないから、形式が根本になってしまうのです。
祈りに集中していれば、時間など忘れてしまうものです。
仏道修行とは、無理を重ねて苦痛に耐えることではありません。
苦行に耐え抜けば、根性はつくかもしれませんが、体を壊してしまいます。法の器である肉体を粗末にするのは、完全な謗法です。
決して無理をしてはいけないし、させてもいけません。
体調が悪い時に必要なのは、題目ではなく、治療であり休養です。
蓮祖も、漢方医である四条金吾の治療を受けていました。題目を頑張れば病が自然に治るなどということはありません。
根性と信心を混同してはいけません。根性では成仏できません。
根性をつけたければ、最初から外道の苦行をやればいいことになってしまいます。
根性は下等な「精神力」に過ぎず、仏界の「生命力」とは比較にもなりません。
毎晩遅くまで活動して、寝る暇もないというのも、時間を無駄にしているだけで、かえって法を下げています。
どうせ折伏が進むわけではないのだから、さっさと帰って休みましょう笑
「無理」を避けることこそが「道理」であり、価値創造なのです。