※「池田大作の軌跡2」より
1974年に池田先生がソ連を訪れた当時、毎晩のように宿舎を訪れてくる男がいました。
KGBの幹部として数々の対日工作を手掛けてきたイワン・コワレンコです。
当時の役職はソビエト共産党中央委員会の国際部副部長であり、KGBどころかソ連中央の最高幹部でした。
コスイギン首相に池田先生と面会するよう直談判した張本人でもあります。
とはいえ、コワレンコは決して友好的な態度ではありませんでした。むしろ、創価学会をいかに対日工作に利用するかを考えていました。
コワレンコは先生に対し、日本政府は中国と距離を置いてソ連と接近すべきだと主張しました。
「従えないのなら戦争してもいい」という恫喝もありました。
これまでの長年の工作の中で、日本人には脅しが一番効果的だという事実を、コワレンコは熟知していました。
もとよりここはソ連の奥地です。当時ですから、日中友好を叫ぶ日本人の身の安全など、全く保証されていないも同然です。
しかし先生はまったく動じることなく、
「日中が条約を結んだ後、それ以上の日ソ条約を結べばいい」と応じました。
それどころか、
「
もっとソ連は大人になりなさい! 時代は変わりますよ」
「ソ連寄りではない人物も招待すべきです」
逆に、そう叱りつけたそうです。まさに獅子王の姿です。
コワレンコは、この日本人には脅しが全く通用しないことに、狼狽するしかありませんでした。
歴史の表に出ないところでも、先生の言論闘争は人知れず続けられていたのです。
世界広布を進める上では、各国の諜報機関との対決は避けて通れません。
表に出ないだけで、こうしたせめぎ合いは数えきれないほど存在したはずです。
先生がその全てに正々堂々と勝利してきたからこそ、今日のSGIがあることを、君たち青年は決して忘れてはいけません。
表の歴史があれば、必ず裏の歴史もあるのです。それを鋭く見通せなくてはなりません。
この時の訪ソでも「生きて帰れるかどうか分からない」という意見もありました。
それでも先生は、中ソの武力衝突という最悪の事態を回避するため、命がけでソ連の大地を踏んだのです。
まして、堕落した幹部や議員を叱っていくことなど、あまりにもささやかな戦いです。
その程度で臆病の心を抱くような青年は、とうてい先生の弟子とは言えないでしょう。