念仏撲滅 禅撲滅 真言撲滅 カルト撲滅
一、身輕法重の行者に於ては下劣の法師爲りと雖も、當如敬佛の道理に任せて信敬を致すべき事。
一、弘通の法師に於ては下輩爲りと雖も、老僧の思ひを爲すべき事。
一、下劣の者爲りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。
その中で、「信心とは何か」という基本が非常にあいまいになってることだと思うんですね。
だから信心が「会合型信心」「活動型信心」になってるんですね。だから、「会合」に出れば信心がある、あるいは、皆と動いていれば信心しているみたいな錯覚があると思うんです。
「指導」とは何かというと、結局それは「御本尊」へ向かわせること。
その人の「一念」を「御本尊」へ向かわせること。簡単に言えば「発心」させること「決意」させること。「指導」とは「発心」させることと言っていいんですね。その上で、いろいろなことを「教えてあげる」あるいは「実践させる」あるいは「守ってあげる」事は必要です。根本はあくまで「指導」なんです。「指導が」下手をすると今、出来なくなってる。色々なことを教えたり、動かすこと、守ってあげることは出来るかもしれないが、根本の「指導」が出来ないと人は育たないんですね。だから下手をすると幹部が「運営上手」の「指導べた」になってしまう。
組織とか会合の「運営」はうまくなったけれども「発心」させることが出来ない。
「決意」させる事が出来なくなっているんですね。これが一番恐いことだと思うんです。
そういう面では「会合」はあくまでも「発心」の場でなくてはならないんです。
牧口先生はこう言われた。
『病気をした。これは罰だ。と何故だったんだろうと悩んでもしょうがない。
それだけでは解決はしない。そこでこの病気を必ず変毒為薬してみせる。健康という大福運を開いてみせると確信をして、決意して信心を続けていくことが大事なんだ。そうすれば病気が治るだけではなくて、全快した ときには以前より健康になるのが変毒為薬の妙法の功徳なんだ』といわれた。
病気したら前より健康になればいいんです。治っただけじゃいけないんです。
前より健康にならなくてはいけないんです。失業したら前よりいいところに就職すればいいんです。そして同じ事で二度と悩まない。これが宿命転換した証拠なんです。
仕事の事でまた悩む、しばらくしてまた悩むというのは宿命転換していないんです。
起き上がりこぼしは、触ればゆれるけど、ほうって置けば必ず安定しますね。それは、起き上がりこぼしの底に重たい重心が入っているから、触ればゆれるけど、最後は安定するんです。この重心が重いほど安定度は増しますね。重心が上の方にあるとひっく り返ってしまいますね。
仏界の重心を重くすれば重くするほど、何があってもすぐに元に戻るんです。
命の重心を重くすれば、何があってもゆれが少なくなってくるのです。そして、根本は安心しきっていける。
氷山の一角といわれるように、水の上に出ているのはほんの一部なんですね。
水の上に出ている部分を悩みとします。この部分だけが宿命ではないんですね。宿命の現われに過ぎないんです。人の生命は宿命の固まりなんですね。
水から出た部分が悩みなんです。
この悩みを方法で解決したとします。
病気になった、医者で治した、悩みはなくなった。ところが氷山は上の部分がなくなると、また下の部分が出てくるんですね。今度は家庭の問題であるとか、
そのうちに氷山の下の部分が膨れてくるんですね。きりがないんですね。
ですから元を断たなければ駄目なんです
生命そのものを変えなければ、悩みの形が変わるだけで、悩むことに変わりはないんです。その生命そのもの弱い醜い命を、どうきれいにするかということが信心なんですね。だから悩みが起きた時がチャンスなんです。
悩みが出てきたということは、その人の宿命が出てきたわけですから。
信心して出てきた場合には、これは解決する為に出てきたんです。
戸田先生は「癖が出るのを罰という」といわれた。この「癖」というのは、命の「癖」つまり「宿命の癖」が出るのを「罰」・「不幸」というのだ、と言われた。
「罰」というのは「仏様」や「神様」があてるのではないんですね。
自分の中にある「癖」が出てくるんですね。ですから「罰」は出るもんなんです。バチが当たるのは太鼓だけ。
その出方が問題なんですね。
信心をしている場合には「転重軽受」。
これを現代的に言うと大型割引ということなんですね。
どんなに信心頑張っても借金がゼロにはならないんです。ですから信心をしていて「悩み」が出てきたということは「転重軽受」するチャンスなんです。
ここに百万円の借金がある。
とても返せない。十万円に負けてやるからすぐに払うかと言ってきたようなものなのです。払ってしまえば、百万円の借金は無くなるんです。ですから急いで払ってしまえばいいんですね。払わないと結局差し押さえにあうんです。
飛行機でも着陸が大事なんです。着陸寸前でおっこちてはいけないんです。こうゆうのを片桐型信心って言うんです。着地に失敗してはいけないんですね。着地しなくちゃだめなんです。着地するときに事故の7割が起きるんですから。信心も同じなんです。
実証というのは決意の持続にあるんです。決意したことをやり通せば結果は必ず出るんです。決意の持続が実証なんですね。
実証が出ない、結果が出ないということは、決意があいまいか、持続しなかったかどっちかなんです。
たいていは「決意」することをさせないで「やること」を強制させてしまうんです。その悩みだったら2時間題目を上げなさい、とか言うわけです。これは、悪くはないのだけれども、相手に押し付けたのでは結局重荷になってしまうんです。
本当の「決意」ではないから、「言われた決意」だから。「言われた決意」というのは長続きしないんです。結局「押し付け」だから。本当の「発心」ではないから。
形から入ったら「惰性」になってしまうんです。
「決意」から入ったら「信心」になるんです。だから、「決意」させる事が「信心」なんです。そうすれば、後は言わなくても一緒に活動できるようになるんです。
心が動けば体はついてくるんです。体だけ動かしても心がついてこなければ空回りになるんです。
だから
「言われたからやっている」
「やらなくちゃならないからやってる」「なんとなくやってる」
「なんとかなるからやってる」
こうゆう一念は全部「受け身」なんです。「受け身」=「惰性」ということ なんです。惰性だと必ず重荷になるんです。
そうすると、活動が苦しくなってしまうんです。
したがって「結果」が出ないんです。
そして「愚痴」と「文句」が出てしらけてくるんです。
学会二世というのは生まれつきの惰性ですからね。信心の体験がなくてそのまま来ている人が多いですからね。
人柄はいいのだけれども弱いんです。
体験がないから、何かあると挫折してしまうんですね。何の為に信心をするのかということを教わっていないんです。
勤行と活動だけは教わっているのだけれども、そうゆう意味では自分の意志で信心を始めたわけではないんですね。自分で決意して初めて信心になるのです。
文化祭は頑張ったけれども、文化祭が終わったとたんに勤行しなくなってしまったという人、大勢いるでしょ。
すぐ落ち込んでしまうんですね。
自分自身を変えようという決意があった上にそのために活動を頑張るんだということが大事なんです。そうすれば活動が全部生きてくるんです。活動の為だけの目標だと自分自身の変革はないんです。
理論で相手に話をしても、相手に通じることは少ないでしょう。
これは、家族でも、親子でも同じなんです。言葉で通じることって少ないんです。ではどうするか?
直通はだめなんです。御本尊経由でいくんです。必ず通ずるんですね。遠回りで、一番近道、御本尊経由が一番近道、一念は通じるんです。
朝、お題目を上げられない人は、一日負けなんです。
一日負けということは、人生負けということです。
朝、その日、その日を決めて・祈って・動いて勝負なんです。
その積み重ねなんです。
だから毎日、毎日の戦い、会合がある、折伏がある、指導がある、本当にそう思ったら祈れるはずなんです。
祈らないでいくから結局から回りになってしまうんです。空回りの連続だから、良くわからない、良くかわらないから、楽しくも何ともなくなってしまうんです。そして、愚痴と文句が出てくるんです。ですから朝の勝負なんです。
この一日の積み重ねが、戦いなんです。
成仏は、発心の持続にあるんだ。という事です。
信心をしていれば、なんとかなるんじゃない、自分で決めて・祈った分しか、結果は出ないんです。
四条金吾殿に与えられた御書の中に、
「たとえ、相手が妻子であっても、愚痴をこぼしちゃいけない」という御書があるんです。相手が自分の妻や、子供であってもですよ。
愚痴をこぼしちゃいけないっていうんです。結局、愚痴というのは、「自分は悪くないんだ。環境が悪いんだ」というのが愚痴でしょ。
自分の弱さの現れであり「自分のせいじゃない、人のせいだ」って言うのが愚痴なんです。今度それを相手にぶつけるのを、文句というのです。だから愚痴と文句は、双子の兄弟なんです。信心している人にぶつけると、怨嫉というのです。双子の兄弟の親分になるんです。
だから、愚痴と文句と怨嫉と付き合っているうちは、どんなに頑張っても功徳はないんです。盛大に付き合っている場合が多いんですね。どんなに頑張っても、マイナスになってしまうんです。ですから、愚痴と文句を言わないことですね。人に言ったら愚痴になるんです。大変だ!御本尊にぶつければ、祈りになるんです。百万遍愚痴を言ってもいいことはないんです、御本尊に言ったら開けちゃう。人に言わない!御本尊にぶつけることですね。愚痴と文句と怨嫉をしないことが功徳を受ける信心のコツなんです。
どんなに立派な決意しても、持続しなかったら、決意しなかったと同じです。この間来た男子部がいうんです。決意がすぐ変わるんですって。変わる決意は決意じゃないんです。そうでしょ、行き先を変更ばかりしているんですから。大阪行こうかな、仙台行こうかな、新潟行こうかなって、行き先変更ばかりしているんですから。着くわけないんですね。切符を買っても途中で降りちゃうんですから。キャンセル型信心っていうんですね
信心しているからといって、「信心してもちっとも変わらないじゃないか」
「仕事もちっともできないじゃないか」と、そうゆう風に、生活の上に実証を示せないで、むしろ人に御本尊を疑わせる、とすれば謗法だと、よく戸田先生が言われました。そして広宣流布の妨害だといわれたんです。
入会者の入会動機を聞いてみると、
入会動機の53%は紹介者の熱意、真心に感じてです。28%は紹介者の人柄、言動に感動してです。81%は紹介者なんです。紹介者の一念なんです。
紹介者の振る舞いなんです。
どんな戦いだって同じことですよ。やっぱり相手がこちらを信用しなければだめなんです。
一、世間の評判を気にする坊主は生臭坊主だ。
一、折伏もしないで折伏する信者にケチをつける坊主は糞坊主だ。
一、尊敬される資格もないくせして大聖人の御袖の下に隠れて尊敬されたがって居る坊主は狐坊主だ。
一、御布施ばかり欲しがる坊主は乞食坊主だ。
一、神本仏迹論なんて言う坊主は化物坊主だ。
【1951-05-10】
一、化物坊主と寸鉄居士の大喝でおこった坊主があるげな。寸鉄居士その坊主を呼んで曰く「第六天坊主」と。
【1951-07-01】
一、宝のもちぐされというがどこの寺のことだ。
一、立宗700年がくる。大聖人様はどんな事を喜ばれるであろう。なに一つ梵鐘を作れば良い、火事が起こってから半鐘を作って間に合うか。
一、軍部に脅されて梵鐘を取り上げられ、軍部が消えたら又作り出す。奥さんの前でヘイヘイして、居なくなればつまみ食いする女中のような坊主だ。
一、日興上人の御遺戒置文を守って居られる方は御坊様、守らん僧侶は坊主、邪宗の僧は高等乞食というんだ、よくおぼえておけ。
【1951-07-10】
一、東京の寺へ寄付の割当が来たそうだ。折伏の割当はいつくるのかね。逆に割当なきゃ出来るもんか。
一、御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね。
一、御盆廻りで忙しい坊主も居るし、折伏廻りで忙しい信者もいるし、全く世の中はさまざまだ、アア――。
一、御盆廻りって何の事かね、檀家の先祖を供養する事かね。それとも供養される事かね。
【1951-07-20】
一、寸鉄居士よ御僧侶を坊主などと呼ぶと地獄へ堕ちるぞ!!
一、寸鉄居士答えて曰く「御僧侶を坊主と言った覚えなく、坊主を僧侶と呼んだおぼえはない」。
一、坊主が御僧侶の衣をつけたのと御僧侶が坊主の姿に見えるのとは皆信心のはかりではかるんだよ。
【1951-08-20】
一、信者はお寺のお客か御本尊様のお客か。
一、一体お客様と云うのはどういうわけか、相手を儲けさせるからお客様か。
一、お寺のお客様ならお寺繁盛のため一人でもいいはずだ。
一、そう云ってしまったら身も蓋(ふた)もない、御本尊様の客だと申し上げれば誠に聞こえがよい。しかし腹の中ではお寺の客だと思うから供養の多寡によって扱いに上下がつく。
一、信者は御本尊様の客じゃない。子供で弟子で家来だ。
【1951-12-10】
一、宗会の決議では我等の会長が登山止めだそうな、物騒な世の中になったものだ。
一、忠義を尽して謗法を責めて御褒美あるかと思うたに、おほめはなくて「登山まかりならん」とおしかりさ。弟子共一同「俺達も一緒に登らんわい、フン」だってさ。
一、何が「フン」だい。決ってるじゃないか、日本全国の信者の声だってさ、嘘もよい加減にしろ、折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばること許(ばか)りを知っとる坊主の学会に対するやきもちだからさ。
一、寸鉄居士会長に御伺いをたてたら「あんまり騒ぐなよ、こんな目出度いことを」とニヤリさ。
一、こらこら騒ぐな「ニヤリ」を説明してやるからな、
如説修行抄に仰せあり
「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の強敵決定せり。されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし」。三類の悪人の仕業の中に「遠離塔寺(おんりとうじ)」と言って寺から追い出すやり方がある、悪人共がさ。
さて、我等が会長に折伏の大将として一大名誉を贈ったのさ、「遠離塔寺」と云う仏様からの勲章なんだ。
一、寸鉄居士ニヤリとして曰く、宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類か、ニヤリ。
【1952-07-10】
一、正宗信者に信心が足りない、旧信者は特に足りない、僧侶の中に特別に足りぬ者がいる様に見える、国家の救済をどうする気だ。
一、僧侶が世法の事と政治的な考え方ばかりにとらわれているのは信心がないからだ。
一、僧侶は政治家になるべきではないから政治的工作はよせ。
一、僧侶は商売でお寺をやっているんではない、喰うために寺があるなんて考える奴は風上にも置けんやつだ。
一、布施にまよってはならぬ、山程積んである御本尊の功徳を一日も早く悩める民衆に施せ、和尚さん面(づら)して奥に引っこんで威張っているのが能ではない。
【1952-09-10】
一、信心の弱い者ばかり集めたがっている坊さんがいる、そんな坊主は学会くずれを拾って喜んでいる。
一、それぢゃその坊さん屑(くず)買いじゃないか、そんな屑集めて何になる。
一、その屑がね、総代になったり副講頭になったり婦人部の幹部になったりしているよ。
一、学会の屑っていう者は偉いもんだな。屑でないのは凄いだろうね。
一、凄い所か、真金だよ、火にも焼けず水にも漂わず、教学に折伏に大童(おおわら)わだ、天晴れものだ。
【1952-10-20】
一、旧信者相手にいばってるくせを学会の人々にお出し下さるな、空いばりには驚かぬのが学会魂だ。
【1952-11-20】
一、山規法規とやかましいが謗法には手ぬるいね。
【1952-12-01】
一、仏様でもないくせに仏様のような顔をして威張る坊主が気に入らない。
【1952-12-10】
一、坊主の仕事は衆生を成仏させる事だが、自分が成仏出来るかどうか考えた事があるのか。
一、人の死んだ時にお経を上げるのは何のために上げるのか知っているか、お布施もらうためか死人の供養のためか。
一、死人への供養のためとすれば、ちっとも供養にならないと云う事を知っているのか、喰って寝て豚同様の動物と云う事を自覚せよ。
【1953-01-10】
一、けれども禿人(とくにん)業といって坊主商売の奴には責任はないらしい。
一、禿人業でない御僧侶は一体日本に何人いるのかしら名乗り出てもらいたい。
【1953-04-01】
一、御僧侶たりとも、信心および折伏の指導に誤りありと思わば直ちに会長に報告すべし。
【1953-05-01】
一、世に尊敬されるべき方は、大御本尊様唯御一人である事を固く胸に刻め。
一、御僧侶に望む。現時の御僧侶は尊敬されるべき何物も持合せていないと思う。若し、尊敬を受けたら自ら御自身に言い給え「衣の功徳と御本尊の御威光である」と。
一、焼餅や利慾や自分がいばりたい為に、御殿女中のような争はしてはならぬ。もっともみっともない事である。
一、時折もれ承れば御僧侶間に御殿女中の様な感情があるそうな、恐るべき事である。かゝる事ありたる方は自ら卑しみ給え。
【1953-06-01】
一、或る僧侶云く「此の頃少し罰と功徳の事がわかって来たよ」と、おそいおそい。
一、御僧侶に大法弘通の力がないのは、学問が無いのだとばかり思っていたら信心が無いからだと判ってびっくりぎょう天。
【1953-07-20】
一、僧侶にして信心なしと云わば毛のなき猿が衣をつけたようなものである。
【1953-07-20】
一、僧の罪とはいずれより起りたるか、寸鉄居士断じて曰く「信心なきがゆえに」と。
一、信心なき坊主は御上人様どころか御下人様である。
一、白衣の小僧より教育する事はなにか、それは只々御本尊様の有難さを知らせ、罰と御利益の功能を認めさせる事だ。
一、寸鉄居士曰く「信心なき坊主は見つけ次第速やかに放逐(ほうちく)さられん事を」
【1953-09-13】
一、なげかわしきかな魔の僧侶よ、大御本尊様は大慈大悲の大聖人様が凡夫マルだしのその凡夫に賜わった事を知らざるか、僧衣をぬいで速かに地獄へ行け。
【1953-11-22】
一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相傳す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行致して廣宣流布を待つべきなり。
右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以來七十三歳の老體に至るも敢えて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で御在生七年の間常隨給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依つて此くの如く書き置く所なり。仍つて後の爲證状件の如し。
十一月十日
日興 花押
一、冨士の立儀聊かも先師の御弘通に違せざる事。
一、五人の立儀一々に先師の御弘通に違する事。
一、御鈔何れも僞書に擬し當門流を毀謗せん者之有るべし。若し加様の悪侶出來せば親近すべからざる事。
一、僞書を造つて御書と號し本迹一致の修行を致す者は獅子身中の蟲と心得べき事。
一、謗法を呵責せずして遊戯雜談の化儀竝びに外道歌道を好むべからざる事。
一、檀那の社参物詣を禁ずべし、何に況や其の器にして一見と稱して謗法を致せる惡鬼亂入の寺社に詣ずべけんや。返す返すも口惜しき次第なり。是全く己義に非らず經文御鈔等に任す云云。
一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し擱き、御鈔以下の諸聖教を教學すべき事。
一、學問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶ふべからざる事。
一、予が後代の徒衆等權實を辨へざるの間は、父母師匠の恩を振り捨て出離證道の爲に本寺に詣で學文すべき事。
一、義道の落居無くして天臺の學文すべからざる事。
一、當門流に於ては御鈔を心肝に染め極理を師傳して若し間有らば臺家を聞くべき事。
一、論議講説等を好み自餘を交ゆべからざる事。
一、未だ廣宣流布せざる間は身命を捨てゝ隋力弘通を致すべき事。
一、身輕法重の行者に於ては下劣の法師爲りと雖も、當如敬佛の道理に任せて信敬を致すべき事。
一、弘通の法師に於ては下輩爲りと雖も、老僧の思ひを爲すべき事。
一、下劣の者爲りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。
一、時の貫首爲りと雖も佛法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。
一、衆議爲りと雖も、佛法に相違有らば貫首之を摧くべき事。
一、衣の墨、黒くすべからざる事。
一、直綴を著すべからざる事。
一、謗法と同座すべからず、與同罪を恐るべき事。
一、謗法の供養を請くべからざる事。
一、刀杖等に於ては佛法守護の爲に之を許す、但し出仕の時節は帶すべからざるか。
若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。
一、若輩爲りと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。
一、先師の如く予が化儀も聖僧爲る可し。但し時の貫主或は習學の仁に於ては、設ひ一旦のよう犯有りと雖も、衆徒に差置くべき事。
一、巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫すべき事。
右の條目大略此くの如し、萬年救護の爲に二十六箇條を置く。後代の學侶、敢へて疑惑を生ずる事勿れ。此の内一箇條に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず、仍つて定むる所の條條件の如し。
元弘三年<癸酉>正月十三日
日興 花押