大聖人が、竜の口にひかりものを呼び寄せられたのは、誰もが知っている史実です。
今日では、ひかりものの正体は隕石だと考えられていますが(隕石は大気に突入すると摩擦で激しい光を放つ)、無実の罪で処刑されようという寸前に、上空に隕石が落ちてくるなど、断じて偶然に起こることではありません。
佐渡に流されたときには、鎌倉上空で日天を2つに割っています。この天変地異に怖れをなした執権の北条時宗が赦免を決定したのです。
つまり大聖人は、大宇宙すら自由自在に動かす力をお持ちだったのです。
必要ならば、太陽を西から昇らせることさえ、可能だったはずです。日天は法華経の行者の眷属ですから、当然です。
ただ、そんなことをしても天変地異で世界が大混乱に陥り、一切衆生が不幸になるだけなので、なさらなかっただけです。
オーバーだと思われるかもしれませんが、御本仏は全宇宙の諸天善神を従えていますから、不可能なことなど何一つないはずなのです。
御本仏に対して「いくらなんでもそこまでは不可能ですよね」と思うのは、不信です。
一代で世界に広宣流布されることも、もちろんできたはずです。
しかし1人で全部やってしまうと、後世の弟子たちが功徳を受けられずに気の毒なので、あえて三大秘法を顕すに留めておいたのです。
そして、ここからが肝心なのですが、もったくなくも、我々凡夫が御本尊にお題目を挙げるだけで、御本仏の大生命をやすやすと我が身に顕すことができます。
われら凡夫が、御本仏と同じく全宇宙の諸天善神を従え、どんな祈りも実現できるのです。
大聖人は、そのために三大秘法を残してくださったのです。本当に有難い末法の本師です。
また、そう信じて祈ることが肝要です。
「いくらなんでも、凡夫の題目でそう簡単に大聖人の生命が顕れるはずが無い」と思うのは、
我見でお題目の限界を決め付けることになり、まさに大不信です。
むしろ、末法の凡夫が宿命転換するためには、お題目によって御本仏と縁を結び、その大生命を我が身に顕す以外、方法は無いのです。
大聖人は、われら凡夫を一生成仏させるために、三大秘法を残されました。
だから、素直に大聖人を信じればいいのです。
(くだらない祈りでさえ、煩悩即菩提の原理で、自然に広布誓願の祈りに変わっていきます。本当に有難いお題目です)
「どんな祈りも叶う」と確信できたときに初めて、御本仏・お題目の、本当の有難さが分かります。
本当の報恩感謝が、生命の奥底から湧き上がります。
信を以って源とするのが、この信心なのです。