一生成仏は、最終的には臨終の境涯で決定します。
つまり、たとえ会長であろうと、いざ臨終のときに信心を失えば、何の意味もないわけです。
この信心の最大の功徳は、なんといっても「死が怖くなくなる」ことです。
もちろん長生きを祈るのは構わないのですが、死にたくないという境涯のままでは、成仏とは言えません。
「100歳まで生きるもよし、明日死ぬもよし」
というのが、仏の境涯です。
永遠の生命から見れば、今死のうが100歳で死のうが誤差の範囲です。
生死を併せて祈っていくことです。
御本仏大聖人は、龍ノ口で斬首されようという間際にも
「これほどの悦びをば笑えへかし」とまで仰せです。
ほとんどの人は、老いと病で何十年も苦しんでから死ぬ宿業を背負って生まれてきます。
しかし、
斬首は一瞬で終わりますから、本来受けるべきこの長い苦しみを、一瞬で消し去ることになります。
究極の「ピンコロ」「安楽死」であり、まさに法華経の顕益です。
理想の大往生といっても、過言ではないでしょう。
大聖人が、斬首を命じた平左衛門尉に感謝されたのも、当然ではないでしょうか。
しかし、過去世の宿業が残っていたため、「運悪く」斬首が中止されたのです笑
長生きだから成仏できたとか、早死にだからできなかったとか、そんな見方は仏法ではありません。
50歳で倒れて寝たきりになった人が、医療の力で120歳まで無理やり生かされるのは、幸福と言えるのでしょうか?
その人にとってちょうどいいタイミングで臨終を迎えられるのが、真の幸福です。
みずからの命を狙う者にすら感謝できるのが、仏なのです。