日蓮仏法では、南無妙法蓮華経を唱える一瞬一瞬が、久遠元初であると説きます。
これは、過去世が方便であることを示しています。
宿業というのは、方便なのです。あくまで「仮」ですから、消すことが可能なのです。
どれほど科学力を駆使しても、たとえ仏であっても、「1秒前の世界」からは、素粒子ひとつ持ってくることはできません。
なぜなら、過去の世界はすでにどこにも保存されておらず、完全に消滅しているからです。
「記憶」や「記録」は残っていても、「過去そのもの」は、絶対に残っていません。
存在しない以上、過去が現在に影響することはありえません。
つまり、過去と現在の間に存在する因果関係は、あくまで「見せかけ」に過ぎず、真の意味での因果関係は存在しません。
同様に、過去のあなたと現在のあなたは、見せかけは連続していますが、実際には一切無関係の存在です。因果関係は、一切成立しません。
過去世があろうとなかろうと、関係ありません。どっちみち、過去のあなたは、すでに消滅しています。
したがって、過去のあなたがどんな宿業を抱えていたとしても、現在のあなたが苦しまなければならない理由は存在しないのです。
私たちは、過去を生きることはできないし、その必要もありません。
私たちは常に、永遠に、今を生きることしかできないのです。久遠元初とは、そういう意味です。
見せかけの宿業に迷い、過去を現在と混同することが元本の無明であり、今が久遠元初であることに気づくことが成仏なのです。
あなたは、一切衆生は、常に久遠元初です。一切の罪を持たない、完全無垢な存在です。
一切衆生の宿業は方便に過ぎません。
誰もが、久遠元初自受有報身如来です。宿業を受け入れる必要などありません。
もし、苦しむ衆生がいるとしたら、それは無実の人が牢屋に入れられて罰を受けているようなものです。
仏の目には、一切衆生が、天魔によって不当な罰を受けているように見えています。
これほどむごい話はありません。だからこそ、仏は全ての衆生を憐れみ、その苦悩を断じて取り除こうとするのです。
このように仏の慈悲は、正しい生命哲学に裏付けられています。
最高の知性は、自ずから最高の感情を引き出すものなのです。
「万人が仏である」と悟った人を「仏」というのです。
法華経の智慧より
前へ、また前へと進んでください。
後ろを振り向かないで。
全ては「これから」です。いつも「これから」なのです。
過去を振り返るのではない。
常に「現在」から「未来」への挑戦を始める。
永遠に「これから」である。
ゆえに行き詰まりがない。
人生の座標より