キリスト教で説く「聖霊」が、仏法における「仏性」と共通することはよく指摘されますが、キリスト教は仏法を部分的に説いた教えであるといえます。
法華経においては、虚空の中央に宇宙大の宝塔が出現します。この宝塔こそが「南無妙法蓮華経 日蓮」です。
一方、聖書においては、エデンの園(天国)の中央に「生命の樹」が立っていて、その実を食べると永遠の生命が得られるとされています。
つまり、聖書を記した外道の聖賢でさえも、不完全ながら「胸中の虚空会」「胸中の宝塔」を感じ取っていたのです。
なお、生命の樹の左右には「知恵の樹」が立っています。これは法華経では釈迦多宝に当たるシンボルでしょう。
また、キリスト教会のデザインは、尖塔の先端に十字架を掲げるのが一般的です。
偶然かもしれませんが、御本尊の宝塔の先端も、十字です。
つまり教会は、無意識のうちに宝塔を模したデザインとなっているのです。
さらに聖書では
「始めに言葉(ロゴス)ありき。言葉は神とともにあり。言葉は神なり」
という有名なフレーズがあります。
言葉即ち経です。
つまり、宇宙の根源が何らかの「経」であり、それこそが唯一神エホバの正体であることを、キリスト教でもわかっていたのです。
クリスチャンの祈りの言葉は「アーメン」です。これは「ナーム(南無)」に近づこうとした結果でしょう。
つまり、7字の題目の冒頭を、どうにかつかみかけるところまでは来ているのです。
しかし、「南無」の続きがどうしてもわからなかったわけです。
エホバの正体である「南無妙法蓮華経」を、人類史上初めて発見したのが、日蓮大聖人です。
おそらく、キリストが大聖人の教えを聞いたならば、ただちに弟子入りし、南無妙法蓮華経を唱えていたでしょう。