家康は大坂夏の陣に74歳(数え年)で自ら出陣しています。
翌年に没していますので、事実上生涯現役で戦場を駆け続けたのです。
武術の鍛錬も怠りませんでした。駿府城への隠居後、家臣を集めて射撃大会を行いましたが、家康は2町(約200メートル)先の的に5発も命中させ、抜群の成績を残しています。
当時の火縄銃はライフルを切っていないため、命中精度は今の銃とは比較にならないほど低いものでした。
それでも、200メートルの距離から命中させられたという事実は、老家康翁がスナイパーとしても超一流だったことを示しています。
伊達に鉄砲隊を率いていたわけではないのです。
徳川が最終的に天下を手に入れた理由のひとつは、リーダーたる家康が自ら武士としての範を示し続けたことにあるのではないでしょうか。
リーダーが指示だけ出して、自らは高みの見物ということは、断じて許されません。
現場の苦労を知らないと、知らず知らずのうちに無理をさせてしまうことにもつながります。
広布の組織でいうならば、まず幹部が自ら率先して折伏し、新聞も配るのが、真のリーダーの在り方なのです。