人間革命「幾山河」より
リンゴの味を、長々と説明しても、食べてみなければわかるまい。
御本尊の、偉大な力は、理論や学問では、とうてい理解できるものではない。
体験が根本であり、実践を通じての話以外にはないであろう。
結局のところ、今の幹部が折伏できないのは、彼らに絶対の確信をもたらす体験がないからでしょう。本当にたいした体験談がありません苦笑
功徳だけでなく、罰の体験でもかまいません。それも南無妙法蓮華経の力用を証明することになるからです。
戸田先生もあえて罰の体験を語られていました。
かの獄中の悟達も、間違いなく体験です。体験は生命を変えます。
戸田先生は獄中で全身ボロボロになり、事業も壊滅して莫大な借金だけが残りました。
当時は誰もがどん底をはい回るような生活でしたが、その中でも権力に弾圧された戸田先生の苦労はケタ違いでした。
常人ならば、絶望して自ら命を絶つのが普通でしょう。まさに、地獄の底から蘇ってきたのです。
だからこそ人々は、戸田先生の話に耳を傾けたのでしょう。活字や音声では伝わませんが、生身の先生には、そうせざるを得ない迫力があったはずです。
また当時の人々も、先生のオーラを感じるだけの機根があったのでしょう。
その先生が絶対の確信で信心を語るからこそ、やってみようという青年が続々と現れたのです。決して理論だけではありません。
今は、本当に苦労している幹部がいません。この場合の「苦労」とは、あえて難を呼び起こし、三類の強敵と対決するという意味です。
ただ無理をして身体を壊すのは、苦労ではありません。単なるオーバーワークであり、健康管理の失敗です。
信心に励めば、必ず諸難が生じるはずです。そうでなければ、あなたの信心は空転しています。
それと同時に、必ず功徳があります。難も功徳も、自らの生命で実感するしかありません。頭では分かりません。
結局、信仰は体験なのです。