四悉檀を以て時に適うのみ
顕立正意抄(御書 537 頁)
四悉檀は仏法の基本ですが、学会ではあまり重視されていない傾向があるように思います。
しかし実際には、四悉檀を知らずして、御書も師匠の指導も、正しく理解することはできません。
仏はこの4種の方法で法を説くとされています。
①世界悉檀[せかいしつだん]。時代や社会が願い欲する所に応じて法を説くこと。摂受も世界悉檀の一種。
②為人悉檀[いにんしつだん]。詳しくは各各為人悉檀といい、機根などが異なる人それぞれに応じて法を説いて教え導くこと。いわゆる個人指導。
③対治悉檀[たいじしつだん]。貧り・瞋り・癡かさなどの煩悩を対治するために、それに応じた法を説くこと。いわゆる破邪・破折。
④第一義悉檀[だいいちぎしつだん]。仏が覚った真理を直ちに説いて衆生を覚らせること。いわゆる顕正。
特に大切なのは、為人悉檀への理解です。
御書の大半は弟子に対するお手紙であり、それぞれ対合衆が異なります。
したがって指導内容には個人差が出てきます。相手によって正反対の指導が必要な場合すらあります。
池田先生は未来部に対して「まだ折伏をやる必要はない」と指導されています。
しかし、この指導を絶対視して、青年部が折伏を怠るのは、とんでもない間違いですよね?
「指導された相手が誰なのか」を踏まえた上でないと、御書も、師匠の指導も、正しく解釈することはできないのです。
折伏する場合も、もともと宗教に無関心な相手と、占いやスピリチュアルに没頭している相手とでは、当然やり方が異なってきます。
よく為人悉檀は摂受だと勘違いされていますが、折伏にも絶対必要なものなのです。
時期や場所によっても、指導は変わります。
戸田先生はかつて「ヤミ米は見つからんように運べ」と指導されていたことがあります。
当時は配給米だけでは生きて行けず、やむなく全国民がヤミで高く買った米を食べていました。
取り締まる側の警官も皆食べていましたから、話になりません。
そうした極限の時代においては、「ヤミ米を食うな」という指導はできなかったのです。真に受けて餓死者が出たら大変です。
もちろんこれは世界悉檀ですから、現代では「期限切れ」の指導です。
そもそもヤミ米などどこにも売っていません笑
世界悉檀をわきまえていなければ、師匠の指導といえども、かえって有害になってしまうのです。
池田先生は、「まず破邪が先であり、続いて顕正である」と指導されています。
これを四悉檀に照らし合わせると、まず対治悉檀が先、第一義悉檀は後になります。
折伏は謗法の破折から始まるのです。
みんな、第一義悉檀しかやらないから、なかなか決まらないのです。
謗法への執着を断ち切らないまま、中途半端な信心でお題目を唱えても、功徳はありません。
まずは謗法を完全に止めさせることです。その時点で折伏は半分できています。
そこで初めて、お題目の素晴らしさを説けばいいのです。