池田先生指導「世界を照らす太陽の仏法」より
自分の苦しみを「宿業」ととらえるだけでは、後ろ向きになります。
それを、あえて
「使命のために引き受けた悩みなのだ」
「信心で克服することを自分が誓願したのだ」
「仏法の偉大な力を示して、大勢の人を救っていくためなのだ」
と、とらえ直すのです。
新・人間革命「力走」より
「病気になったのは信心が弱かったからだ。幹部なのに申し訳ない」などと考える必要はない。そう思わせてもいけません。
↓以下本文は管理人個人の解釈であり、池田先生指導ではありません。転載は可ですが、先生の指導として紹介することは混乱の原因となるためお止めください。
凡夫には、「罰」と「宿業」と「魔」の区別がつかないものです。
しかし開目抄には
「諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界に至るべし」とありますので、本来は区別の必要がなく、同じものだと考えられます。
戸田先生は、
罰は宿業の軽いものだと指導されていました。これは分かりやすいですね。
しかし、宿業と魔が本来同じとは、どういうことでしょうか?
聖愚問答抄には
「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき」とあります。
一方で兄弟抄には
「魔競はずは正法と知るべからず」の有名な御文もあります。
これらの御文を併せて考えると、
題目によって宿業は必ず消えるが、入れ替わるように必ず魔が現れることになります。
仏は「少病少悩」であって、無病無悩ではありません。
宿命転換しても、魔との対決は最後まで続きます。
つまり、同じ難が現れても、それを「運命だから仕方ない」とあきらめてしまえば、宿業として重く受けなければなりません。
しかし、「魔を断じて打ち破るのだ!」そう決意することで、軽く済ませることができるわけです。
宿業を受け入れるだけでは苦しいのみですが、魔と戦うことは、苦悩を補って余りある大功徳を受けられるからです。
宿業は元来不幸の因ですが、魔としてとらえ直すことによって、幸福の因に転じていくことができるのです。
宿業を「実」にするか「虚」にするかは、あなたの一念にかかっています。
苦境の同志を激励する場合も、宿業論ばかりを説いていたら、罪悪感ばかりが強まり、むしろ生命力が奪われてしまいます。
宿業論はもともと爾前の教えであり、法華経の宿命転換を説くための「足代」に過ぎません。
生命力を高めるための激励なのだから、同志に対して今さら宿業を強調する必要は無いのです。
まして、軽々しく「祈りが足りない」などという指導をしてはいけません。
祈らないとすぐ罰が出るような信心なら、最初からやらないほうがいいことになってしまいます。
大聖人は南条時光が重病で倒れた時、これは成仏を妨げようとする魔の働きであると断言され、「これは宿業や罰ではないか」「信心が足りなかったのか」と悩んでいただろう時光の罪悪感を取り除かれています。これが、本当の激励です。
悩みが解決すると聞いて信心を始めたのに、いっこうに解決しない…これが魔の働きでなくて、なんだというのでしょう?
つまり、宿業が消えていることをあなたに気づかれないように、入れ替わりに、魔がこっそりと宿業のフリをして現れているのです。魔は常に「紛らわしく」競い起こります。
断じてあなたの祈りが足りないのではなく、祈っているからこそ魔が出ているのです。
諸難一切は、魔の働きです。
あなたは法華経の行者なのだから、宿業などとっくに消え失せています。この上現れる難は、全て魔の働きです。また、そう信じて疑わないことです。大聖人と御本尊を疑わないことです。