新・人間革命「潮流」より
幹部が完成した組織の上に乗っかり、行事を運営する手法だけを身に着け、それで広宣流布が進むかのような感覚に陥ってしまえば、早晩、学会は破綻をきたすことになる。
幹部が、それを忘れ、青年が、それを知らずに育っていくことを、伸一は最も危惧していた。
派手で奇抜な、大掛かりな舞台を目指すのではなく、内容面での充実に力を注ぐ努力をすることです。
メンバーは純粋です。皆、献身的に準備にあたってくれる。しかし、それを当然のことのように考え、過重な負担を強いることが続けば、どこかで、その弊害が生じるものだ。事故も起こりかねない。
「一将功なりて万骨枯る」ような事態は、絶対に避けることだ。守るべきはメンバーだ。
コンベンション自体は、広宣流布、世界平和、一生成仏を目指すための、ひとつの化城です。仮の目的に過ぎない。
派手なコンベンションばかりを設定し、皆が時間的にも、経済的にも疲弊して、へとへとになり、仏法対話にも、教学の研鑽にも、座談会にも力が入らなくなってしまうならば、本末転倒です。
皆に過剰な負担をかけ、年々、派手になっていく一方のコンベンションの在り方は、考え直さなければならない。
本当に大事なのは、日々の学会活動です。
ある都道府県の青年大会の当日リハーサルにおいて、参加者が舞台から転落し、病院に運ばれるという事故が発生しました。
警察が現場検証に入り、大会もあわや中止寸前の事態となりました。
地元青年部なら誰もが知っている有名な事故です。
大きなイベントを限られた時間と人員で成功させようとすれば、現場に過大な負担がかかります。
その中では、決しておろそかにしてはいけない安全対策にも、一瞬の油断が生じます。
それにしても、ステージからの転落とは、ほいくえんのおんがくかいでも起こらないような、あまりにも初歩的な事故です。
どこかに根本的な一念の狂いがあったと言わざるをえません。
そもそも創価学会はイベントサークルではありません。素人集団が巨大イベントを運営しようとすれば、どこかで無理が生じるのは当然です。
この事故についていえば、現地幹部の人員も能力も、この規模のイベントを無事故で成功させるレベルに達していなかったと言えるでしょう。
せいぜい中心会館での会合運営しか経験してきておらず、不慣れな大会場で未知のイベントを仕切れる力は無かったのです。
幹部たちの中に「祈っていれば何とかなる」という慢心が蔓延した結果が、この事故だったのです。
題目を唱えるだけで、素人が突然プロ並みのスキルを発揮できるなどということはあり得ません。それは世間のプロをあまりにも軽く見ています。
どうしてもやるというのであれば、肝心な部分の運営は業者に委託すべきです。
当然、費用がかかりますが、そこまでしてやる必然性のあるイベントなのかを、改めて検討することが必要でしょう。
創価学会は青年を「会合屋」に育てる組織ではありません。育てるべきはあくまで「折伏屋」なのです。