御書には
「御本尊を逆さまに安置してはならない」
という御金言はどこにもありません。
だからといって、常識的・本能的に御本尊を逆さに安置する狂人はいません。
仏法に限らず、どんな宗教でも、本尊は、戒壇の正中にまっすぐ立てて安置するものです。
このように、
「自明の前提」というものは、通常、いちいち言語化されません。
それゆえ「御書になければ何をしても構わない」ということにはならないのです。それは御書根本をはき違えています。
当時、紙は貴重品であり、お手紙を記す時間にも限りがあります。
省略できる指導は省略されていると考えられるので、言語化されているものを指導の全てとみなすのは誤解の元です。
そもそも、全ての御書が現存しているわけでもありません。
鎌倉時代の常識、また宗教・仏法の常識を踏まえておかなければ、とんでもない誤りを犯しかねません。
御本尊に第六天魔王が記されているからと言って、これを中心に拝んでいたら、生命が天魔に乗っ取られてしまうのは自明です。
形としては御本尊を受持していても、全く異なる結果になってしまいます。
この道理は、師匠の指導でも同じです。
「教学が無くても折伏はできる」
「曼荼羅の意味を知らなくても功徳はある」
こうした指導は、言うまでもなく初信者向けの為人悉檀です。
信心は「現証が第一」ですから、最初は理証文証を後回しにしても問題ありません。
しかし10年20年のベテランであれば、曼荼羅の解説くらいできて当然です。
無智を放置すれば、それはやがて不信の因となります。
信心は体得・感得するものなので、教学だけをどれだけ研究しても境涯は革命できません。
逆に、境涯が変われば自然に理解できるようになります。
結局、行学の二道はどちらも欠かせないのです。