御本尊は文字曼荼羅として表現されています。
具体的には法華経の虚空会を描いていることに間違いありませんが、そのすべてが大胆に文字のみで表現されています。
中央の宝塔は「南無妙法蓮華経 日蓮(花押)」と表現されています。末広がりで下部が太くなっているのは、まさに遠近法で、宝塔の高さを表現されていると考えられます。
また「虚空」ですから、大地は描かれていません。ゆえに御本尊を拝すると、虚空に住しているような感覚が生じます。
書であって書でなく、画であって画でない。
經であって經でなく、曼荼羅であって曼荼羅でない。
まさに、過去に例のない「書画一体」の芸術作品です。
仏界は九界を具足しますから、自ずから芸術家の生命も具えています。
仏は必ず芸術家でもあるのです。
池田先生も小説家であり随筆家であり詩人であり、ビアノを弾き舞を舞い揮毫され写真展も開かれています。
この仏の万能の生命力を、先生は「全体人間」と呼ばれました。
御本尊は芸術作品でもあるので、オリジナリティを損ねることがあってはなりません。
蓮祖はあえて梵漢日の三語を駆使して御本尊を顕されました。これは当時において「世界本尊」を志向する表現であり、
今日に生まれていたなら、おそらくアルファベットも用いられたでしょう。
しかし、時代のたびに御本尊を描きなおすなどということはありえません。
原作を離れれば、それだけ蓮祖の生命との感応が薄れてしまいます。
「モナリザ」を、アニメ風に修正することがありえないのと一緒です(笑)
御本尊は今後も蓮祖の筆そのままで受け継いでいくべきなのです。