御本尊に著作権は成立しないと思われるので、聞いたこともないようなカルトが日蓮本尊を安置し、信者に題目を唱えさせることも、今後十分に予想できます。
しかし、御本尊であることに変わりはないので、そうであっても功徳は変わらないのでしょうか?
結論を述べると、「戒壇」の条件を満たしていないため、三大秘法が成立しておらず、功徳はありません。
御本尊であるならば、清浄かつ最勝の場所を選んでご安置奉るのが当然です。
親の写真をトイレの床に貼るキチガイはいませんよね?
御安置の時点で「祈り」は始まっています。
カルト教団の施設は、どう考えても御安置にふさわしい場所とは言えません。
それを、御本尊があるという理由だけで、戒壇として認めてしまうのでは、かえって御本尊を粗末に扱うことになり、功徳どころか罰の因です。
奉安堂本尊を受持の対象としてはならないのも、全く同様の理由です。
花和尚への個人崇拝を肯定するカルト教団の本部が、御本尊を安置するのにふさわしいはずもありません。
心では今でも「正本堂本尊」こそを受持するべきなのです。心は時間に縛られません。
祈りは時間を超越します。だからこそ、われわれは末法万年に渡って蓮祖と仏縁を結ぶことができますし、故人や子孫に功徳を回向することもできます。
学会が赤誠によって正本堂を建立したのは歴史的事実です。建物を壊しても、事実が変わるわけではありません。
花和尚の正本堂破壊は全くの無意味・徒労であり、そのような愚行に信心を乱されることこそ愚かの極みなのです。