他力本願を否定し、自力での成仏を目指すという点において、日蓮仏法と禅は共通しているように思えます。
しかし、禅の悟りは、一人よがりに過ぎないものです。
禅は「不立文字」で、悟りの境地は言葉では表現できないとしています。
弟子が悟ったかどうかを決めるのは、師僧の主観です。客観性ゼロです。
つまり、師僧が悟りの境地を少しでも誤解していたなら、間違った悟りが代々伝わっていくことになります。
そして、それを修正する方法は存在しないのです。
そもそも、禅の始祖は達磨とされますが、達磨が正しい悟りを開いたことを、誰が証明できるのでしょうか?
達磨の悟りが偽りであれば、歴代禅師の悟りも、全て偽りだったことになります。
あなたがまだ悟りを開いていないのであれば、当然、達磨が悟っていたかどうかは判定できないはずです。
「私には悟りの境地がどのようなものかまだ分からない。しかし達磨が悟っていたことはわかる」
…これは、完全な自己矛盾です笑
あなたが悟りを開いていると思っていても、それが正しい悟りなのか、偽りなのか、誰にも分らないのです。したがってやはり、達磨が正しく悟ったかどうかを判定することはできません。
「私は正しい悟りを開いている。なぜなら達磨の弟子だからである。だから達磨は正しく悟っている」
…こういう論法をトートロジーというのです笑
それに対し、日蓮大聖人は、法華経という明鏡を基準に、自らが末法の仏であることを「証明」されています。
法華経に説かれた通りの大難に遭い、それをことごとく乗り越えられています。
それは、我々凡夫にも十分に納得できる客観性を持っています。
禅の悟りなどとは、天地の相違があるのです。