仏法では、神は諸天善神ないし護法善神と呼ばれています。
仏の持っている様々な法力をシンボル化したものです。
つまり、実体としての神が存在するのではなく、仏の持つ偉大な生命力の働きを諸天と名付けるのです。
従って仏法では、自らの外に神を求める祈り、いわゆる「神頼み」を否定しています。
あくまで「自らが仏である」という確信の祈りによってのみ、諸天が動くのです。
形は仏法を行じているようでも、自分の外に諸天を求め、諸天にすがる祈りでは、すでに仏法とは言えず、功徳はありません。
諸天を「電化製品」、仏の生命力を「電源」に例えてもいいでしょう。
諸天を動かすのはあくまで仏自身の生命力であり、諸天だけでは何もできません。
なので、仏法では諸天を本尊とすることは無いのです。
生命を持たない、単なるシンボルに過ぎない神を、人間の上位に置くところに、一切の宗教の過ちの根源があります。
念仏や真言では、阿弥陀や大日を本尊としますが、これらもシンボルに過ぎず、あまたの宗教と同じ過ちを犯しています。
こうしたシンボルを拝むくらいなら、虫けらを拝んだほうがまだマシです。なぜなら虫けらでさえ人間と同じく、命をひとつずつ持っているからです。
この「命」こそ、仏と呼ばれるものの正体です。
一切衆生は、必ずひとつずつ命を持っています。したがって全員が平等であり、等しく仏性を持っています。
あなたは、命という「宇宙第一の宝」を持っています。
この宝を以てすれば、できないことなど何もありません!
なおかつ、この宝は三世永遠に失われることはありません。
そう確信して生きていくことが成仏なのです。