日蓮は、法華経のみが釈尊の教えを正しく伝えており、それ以前に説かれた他のお経(まとめて爾前経と呼ぶ )は全て方便であると主張しました。
では具体的に、法華経と爾前経は、何が違うのでしょうか?
まず
爾前経では、「女人」「悪人」「二乗(舎利弗ら高弟たち)」の成仏を否定しています。
女性差別はもちろん論外ですが、末法の衆生は全て釈尊に見捨てられた極悪の衆生なので、爾前の教えでは誰一人成仏できないのです。
念仏では悪人正機を唱えていますが、依経である浄土三部経に「五逆罪と正法誹謗の罪人は救わない」と書いてありますので、いくら阿弥陀仏にすがっても無意味なのです。
また、舎利弗をはじめとした釈尊の高弟たちも、爾前経では、あくまで仏の引き立て役に過ぎません。
しかし法華経では、女人はもちろん、悪人と二乗の成仏が初めて宣言されます。
法華経において、
初めて一切衆生の成仏が約束されるのです。
諸経を比較すれば、爾前経は前座に過ぎず、法華経こそが一代聖教のクライマックスに当たることは一目瞭然です。
さらに法華経では「久遠実成」も説かれています。
法華経迹門(前半)では、一切衆生の成仏が約束されたものの、それは遠い未来の話であり、実際に仏になれるのは先の話とされていました。
しかし本門(後半)になると、釈尊は「自らが成道したのは30歳の時ではなく、実は久遠の昔から仏だった」とカミングアウトしたのです。
これは、
一切衆生が久遠元初から仏であることを意味しています。
迹門までは、一切の迷いを断つことが悟りであり、成仏であるとされてきました。
しかし本門では、「生死に迷い悩む凡夫の姿こそが、そのまま最高に尊い仏の姿である」と宣言しているのです。まさに大どんでん返しです。
自らが凡夫の悩み苦しみを知らなければ、凡夫を救うことはできません。だから仏は必ず凡夫としてこの世に出現するのです。
そう、あなたは最初から仏なのです。そう悟ることが即身成仏なのです。
創価学会の戸田第2代会長は
「仏とは生命のことである」
と宣言されました。
この世に生命ほど尊い宝はありません。
その宝を持っている以上、あなたは絶対に間違いなく仏なのです。
命を持たない空想上の神仏を本尊として、人間の上に置くところに、一切の宗教の根本的な過ちがあります。
また、一切衆生は間違いなく、命をひとつずつ持っています。
その意味において、人間であれ虫けらであれ、完全に平等です。
法華経だけが、全人類の平等、動物愛護や自然保護の精神を根底から解き明かしているのです。