法華経の智慧より
「真剣」であれば、必ず「智慧」はわいてくる。
法華経の一句一ゲを忘れたら、普賢菩薩が「私が、必ず教えに現れます」と誓っていたでしょう。
智慧が出なかったら、普賢品は、法華経はウソになってしまう。
「これでは皆に申し訳ない」と思ったら、必死で題目を唱えるはずです。それで変わらないわけがない。
法華経の行者の祈りは、誓願であって、決して「おまじない」ではありません。
したがって「祈っていれば何とかなる」「活動しているからどうにかなる」という祈り方では、もはや法華経の祈りではないのです。
真剣な祈りは、必ず智慧として決定するはずです。
大聖人から智慧を授かるからこそ、広宣流布が進むのです。