「新・人間革命」あとがきより
広布の聖業を果たす、その尊貴な(地涌の)菩薩である私たちが、なぜ、さまざまな苦しみの宿業をもって生まれてきたのか。
法華経法師品には次のようにある。
「薬王よ。当に知るべし、是の人は自ら清浄の業報を捨てて、我滅度して後に於いて、衆生をあわれむが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶ」
妙楽大師は、この文を「願兼於業」と釈している。
この原理のままに、私たちは、苦悩する人びとを救うために、誓願して、病苦、経済苦、家庭不和、あるいは孤独や劣等感等々、さまざまな宿命をもって末法に出現したのである。
師匠が、半世紀以上に渡って綴られてきた「人間革命シリーズ」の締めくくりとして、願兼於業の教えを選ばれたことを、我ら弟子たちは重く受け止めなくてはならないでしょう。
師匠は決して、
「過去世で悪いことをしてきたから、君たちは苦しんでいるのだ」
などと言われていません。
もとより、過去世の因果のために現世で苦しむというのは、仏法ではなく、バラモンの教えです。
しかし、古代インドの人々を分かりやすく正法に導くため、釈尊は「方便として」いわゆる因果応報を取り入れたと考えられます。
諸天善神も、方便のひとつです。梵天や帝釈が本当にいるわけではありませんが、当時の人々には、大宇宙の働きを神々に例えるほうが分かりやすかったのです。
因果応報はあくまで「迹」に過ぎず、願兼於業こそ仏法の神髄であり「本」の教えなのです。
現代人は、ほとんど過去世の存在など信じていません。
そのような時代に、生まれつきの病気で苦しんでいる人に対して、いきなり
「君の病気は、前世で悪いことをしてきた報いだ! 全て君が悪い!」
などとカマしたら笑、侮辱でしかないし(実際に侮辱罪が成立すると思います)、あなたはカルト信者と思われるだけです笑
時代にそぐわない弘教は、法を下げるだけです。
何より、因果応報に囚われていると、「不幸な人は全て自業自得である」という見方になってしまいます。
仏法を信じることで、かえって無慈悲な人間になってしまいます。
メンバーを激励する場合にも、仏子を見下し、
「こいつは不幸になって当然だが、それでも激励してやっているオレ様って超偉いよね」
というように笑、かえって増上慢となってしまいます。
戸田先生は58歳という若さで亡くなられましたが、因果応報では、
「戸田は信心が足りなかったら、宿命転換しきれなかったのだ」
という結論になってしまいます。
親鸞は90歳まで生きましたから、直ちに学会を辞めて浄土真宗に入信しないと、道理に合わなくなります。
そうではなく、戸田先生は「自ら願って」早死にの宿業を背負って生まれてこられたのです。
短い人生であっても、使命を果たし切れることを実証されたのです。
九識論においては、一切衆生の宿業は第八識で融合すると考えます。
地涌の菩薩は、衆生の分の宿業まで引き受けて、末法濁世に生まれてくるのです。
不幸な人は、あなたの宿業まで引き受けてくれているのです。
そのような目で人々を見るのが、すなわち仏眼ということです。
そもそも、自分の宿業しか転換できないとしたら、同志のためにどんなに祈りを送っても無駄ということになります。故人や家族に功徳を回向することもできません。
これでは、仏法はウソになってしまいます。
祈るということは、その人の宿業まで引き受けるということです。
もし、借金に苦しんでいる同志がいたなら、あなたが肩代わりするつもりで祈るのです。
池田先生は大阪の戦いで同志が次々と逮捕されたとき、「自分も牢に入りたい」と祈られたそうです。
自分自身が本当に苦しまなければ、本当に苦しんでいる人を激励することはできない。それこそが、仏の心なのです。