人間革命「車軸」より
釈尊が説いた近因近果の理法を叩き破って、久遠の仏身を開覚する法が必要となってくるわけであります。
御本尊に帰依し、南無妙法蓮華経と唱えることによって、大聖人様と信心の血脈が相通じていくのであります。
そこにおいて、過去世の因果が、皆、消え去って、久遠の凡夫が出現するのです。
一般的には、仏教は因果応報を説くと考えられています。
これは、今世の幸不幸は過去世の宿業で決まっているという考え方です。
しかし日蓮仏法では「宿命転換」といって、この一般的な因果論を否定しています。
因果論の最大の欠点は、
「不幸な人は過去世の行いが悪かったのだから、自業自得であり、助ける必要などない」
という結論に落ち着いてしまうことです。
因果論では、過去世の罪を償うには今世で苦しむしかないと考えます。
だから、不幸な人を「助けてはいけない」のです。
苦しまなければ、いつまでたっても宿業が消えないからです。
病気も貧困も差別も、全て本人の責任であり、同情の余地は一切ありません。
もちろん福祉は全廃しなくてはいけません。
目の前で死にかけている人がいても、それは運命なのだから、助けてはいけません。
因果論とは、究極の自己責任主義なのです。
…しかし、生まれながらにハンディを負っていたり、災害で突然財産を失ったりすることは、どう考えても、本人の落ち度ではありませんよね?
社会的弱者の大半は、本人の努力ではどうにもならない要因によって、弱者に追いやられています。
今回のコロナ不況や豪雨被害でも、それは明白です。
つまり、いつ誰が同じ立場になっても、不思議ではありません。
「万一のために保険に入っていなかったのだから自己責任」
という考え方もありますが、そもそもいまどきのワーキングプアに十分な保険をかける余裕などありません。
因果論を基盤とした社会は、徹底した弱者切り捨て・格差推進主義になってしまいます。
「因果応報は、危険思想」なのです。
日蓮大聖人は、あくまで「破折のために」因果応報を説かれています。
本因妙抄では、方便権教は「因果異性(いしょう)の宗」、法華文底は「因果一念の宗」と明確に区別され、因果異性があくまで迹の教えにすぎないことが強調されています。
法華文底の因果一念、すなわち宿命転換の極理に達したなら、宿命の奴隷である爾前経の因果論はもはや用済みであり、捨てなくてはいけません。
しかし、学会員の中にも、これを正しく理解していない人が多いことは残念です。
因果論では、不幸は全て自己責任ですから、激励など一切不要になってしまいます。
指導が全て「説教」になってしまうのも、「罪深い」同志を心の中で見下しているからです。
因果論に縛られていれば、口で法華経を唱えても、実際には爾前を行じていることになり、かえって堕地獄の因になります。
信心に励むことで、かえって傲慢で冷酷な人間になってしまうのです。
仏法には「願兼於業」という思想があります。衆生を救済するため、菩薩があえて宿業を背負い、不幸な身の上に生まれてくるという考え方です。
すなわち、一切の宿業は「仮の宿業」なのです。それを「思い出す」ことこそが、宿命転換なのです。
あなたには、何の罪もありません。
何の罪もないあなたや同志が、理不尽に苦しまなければならない理由など、本来、どこにもありません!
だからこそ、同志はどこまでも温かく支え合っていくべきなのです。
あなたや同志を苦しめる天魔に対しては、どこまでも怒りを燃やしていくのです。また、あなたたちを守ろうとしない梵天帝釈にも、厳しく雷を落としていくのです。
牧口先生は、子供の幸福のために人生を捧げ尽くした結果、牢獄で飢え死にさせられました。…それも、自己責任なのでしょうか?
これほどの理不尽に怒りを覚えなかったら、もはや人間ではないでしょう。
御本尊には、提婆達多すら記されています。一閻浮提第一の悪人でさえ憐み、最後まで見捨てないのが、法華経の精神です。
三千大千世界に、不幸になって当然の衆生など、1人も存在しないのです。
一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし
御義口伝