「無は存在するか」
この問いに、あなたはどう回答しますか?
無の定義は「存在しないこと」なので、存在しないが正解といえます。
公式にすると 0=0 で、何の矛盾もありません。
しかし、事実として人類は無の概念を認識できるので、少なくとも認識の中には存在するといえます。
無が、真に無であるならば「認識すらできない」はずですよね?
認識可能な時点で、無は存在することになります。
つまり、この問いに対する回答は「確定できない」のです。確率論でも解決できません。
数学的思考に慣れた人間にとって、これは許しがたい現実です。
「解は0でも1でもあり、0でも1でもない」
としか表現できず、これは数学の自己否定です。
0=1が許されることになってしまうからです。
もっと数学っぽい話をすると、自然数と素数は共に無限に存在するとされます。
しかし、自然数は必ず素数より多いので、
「無限は無限より大きい」「無限は無限より小さい」「無限と無限はイコールではない」
というカオスな解が導き出されてしまいます(笑)
つまり、数学はもともと矛盾を抱えた不完全な系であり、神の学問ではありません。
不完全な数学を基盤にしている以上、科学もまた完全ではありえません。
科学は事実の観察から検証を重ね、再現性や教訓を導き出します。
つまり、科学の発展は観察技術と、そこから得られる情報に依存しています。
そして観察技術がどれだけ発達しても、そこには限界があります。どれほど文明が進んでも、人類は決して完全情報を獲得できません。
宇宙の隅々まで観測可能になったとしても、「宇宙の外に何もない」ことを確認する術はありません。これが科学という系の限界です。
科学が科学である限り、不完全であることを免れないのです。
仏法はそのスタート地点から、こうした科学の限界を知っていたように思えます。
だからこそあえて釈尊は、数学や科学に依存することなく、生命の真実を説いたのでしょう。
決して、釈尊が非科学的な人間だったのではなく、もとより科学だけで人類が救えないことを悟っていたと考えられます。
真剣に科学を突き詰めれば、誰もが必ず科学の限界に突き当たるはずです。その先は哲学の領域です。
生命哲学の頂点たる日蓮仏法は、時代遅れどころではなく、まさにこれからの人類のために存在するのです。