1951/9に発表された「講義過程」は、以下のように定められています。
1級 会長が初信者対象に法華経方便品・寿量品の講義
2級 支部長ないし教学部員が折伏経典を講義
3級 教学部員が御書を講義
つまり、法華経 → 折伏経典 → 御書 の順番です。
もちろん法華経講義のベースは御義口伝、折伏経典のベースは早勝問答なので、御書根本であることは不動ですが、肝心なのは学ぶ順番です。
そもそも蓮祖にとって、弟子が法華経を理解していないなど、思いもよらないことでしょう。
また、文上から読んでも末法ではかえって有害であり、御義口伝に従って、文底から正しく読まなくてはいけません。
具体的には、釈尊を蓮祖、舎利弗を興師以下弟子らとして読むことです。もちろん師弟は不二なので、究極的には「我即法華経」となります。
法華経とは、他ならぬあなた自身が末法に涌出して法華経を弘めることを予言する書なのです。
そもそも法華経が「他人事」だったら、どんなに読んでも無意味です。
つまり草創期の同志先輩は、文底から正しく意味を理解したうえで、勤行していたわけです。
意味も分からず勤行するのは、功徳はそれなりにあるにせよ、あまり望ましくありません。
無智を放置すれば、それはやがて疑念を生ずるからです。
戸田先生は「将来鳩摩羅什より優れた訳が完成したなら、それを用いてもよい」とされています。
創価学会として、現代人のために法華経を新訳することも必要でしょう。
勤行の次は折伏です。
このように当時の過程では、まず「邪宗の破折」から学ばせています。
当宗においては、もともと清澄寺での念仏破折を以て立宗宣言とします。
御本尊を建立してから立宗を宣言したわけではありません。「破折が先」です。
念仏を保ったまま、中途半端に南無妙法蓮華経を唱えても、何の意味もありません。
日蓮仏法では、まず何より「邪宗邪師を完全破折する」ことが先立つのです。
その意味では、鈴木エイトこそ真の仏法者と評価することすらできます。あれは本来、創価学会の青年がやるべきことです。
破折があやふやなままお題目の功徳を訴えても、そんな折伏は無意味です。よしんばそれで弘教できても、邪宗への執着を残した会員が増えてしまい、かえって組織を内側から腐らせてしまいます。
入口の時点で、邪宗への執着を完全に断ち切らせなくてはなりません。入会を認めるかどうかは、その先の話です。
創価学会の偉大さは、信仰の純粋さにあり、間違っても組織規模ではありません。
靖国に参拝しながら、100万遍の題目を唱えても、罰が出るばかりでしょう。
破折力がなければ、十大部を丸暗記していようとも、その幹部には教学力が無いということです。
青年は、まず破折を徹して学び、実践していくことです。