医学の進歩に伴い、生老病死の苦しみは長引くことを避けられなくなっています。
多くの人は、人生の最終章を、寝たきりの状態で迎えることになります。
長生きすればするほど、足腰は立たず、目はかすみ、認知症も進んでいるでしょう。
その期間は数週間かもしれないし、数年に及ぶかもしれません。
「そうなってまで生きていたくない、生きている意味がない」という人も少なくないでしょう。
しかし、死に方は選べませんから、どうなってもいいように、心の準備が必要です。そのために仏道修行があります。
寝たきりの老人や病人、障がい者には、確かに経済的生産性はありません。
だからといって、生きる価値が無いと考えるのは、ナチスの優生思想と同様です。
生産性を云々するなら、全てのペットは生かしておく価値がないことになってしまいます。
日蓮大聖人も、日興上人も、日目上人も、檀那の供養に生活の糧を依存していました。
生産性という次元では、寝たきり老人と変わりません。
だったら、大聖人は生きている価値が無かったのでしょうか?
同様に、あなたが一生寝たきりだったとしても、生きる価値が無いなどとは、絶対に言えないのです。
法華経の行者に供養する人は、大功徳を得ることができます。
自分だけでなく、眷属まで救っていけるのが、この法華経の偉大さです。
あなたが寝たきりで、介護を受ける期間が長ければ長いほど、周りの人に功徳を回向することができるのです。
これは、立派な法華経の修行です。断じて、無意味な余生などではありません。
寝たきりの同志は、「寝たきりになることが使命」なのです。その使命がなかったら、すぐ死んでいるはずです。
あなたの周りにも、老いや病、障害によって満足に働けない、動けないという同志がいるはずです。
彼らは、あなたが大功徳を積むためのチャンスを与えてくれたのです。
感謝合掌しながら、激励の品を届け、車椅子を押してあげてください。
「病気がなかなか治らないのは信心が足りないからだ。学会の恥だ」
などという一念で病魔と闘う同志を見下すのでは、あまりにも冷酷無慈悲です。それは決して、仏になるための心構えではありません。
健康か、病気かという基準は、まだ相対的幸福に縛られています。元気でも寝たきりでも、関係なく幸せになれるのが、真の成仏であり、絶対的幸福です。
生老病死の苦しみを抜け出し、最後の瞬間まで尊厳ある人生を貫くには、この法華経に帰依するしかないのです。
先臨終の事を習うて後に他事を習うべし
妙法尼御前御返事