信仰は結局のところ「功徳が全て」です。
功徳のない信仰など、給料の無い会社と同じです(笑)
法の勝劣正邪は、あくまで現証を基準とすべきです。
いろいろ悩む前に、まず実際に現証があるか実験してみるべきです。
ここを見失うと、理論をもてあそぶだけで人生が終わってしまいます。
ただ問題は、功徳の「再現性」にあります。
たまたま何度か功徳があっただけで、宿命転換を全うすることなど不可能です。
肝心なのは、自他共に功徳を着実に積み重ねて、全人類の成仏の軌道を確立することです。
そのためには功徳の再現性が不可欠であり、理証が必要となります。
医療に医学が必要なのと同じです。
医学は信頼性の高い論文、つまり文証で構築されています。
ゆえに仏法でも、現実的に文証に依る必要があります。
ただし優先順位としては文証より理証なので、理に反する文証は排除していく必要があります。
それにはまず理証を確立しておく必要があり、それが可能なくらい自ら再現性の高い実証を体験しておく必要があります。
それを抜きに文証に頼っても、現実の役に立たない、頓珍漢な読み方に陥ってしまうでしょう。