武田信玄は宗派を問わず仏寺を保護しましたが、富士門流に対しては弾圧を繰り返しました。
永禄12年2月7日に興師が拠点とされた重須の堂を焼き、6月には大石寺を焼いて僧侶らを責めました。
翌年には大石寺の境内に陣を構えて駿河を攻めましたが、途中で暴風大波に襲われ、軍勢も流されてしまいます。信玄は近臣と命からがら甲府へ逃げ帰りました。
後継の勝頼も、北山・西山両本門寺の争いに介入し、二箇相乗の御真筆を紛失しています。
親子二代に渡る謗法が祟り、戦国最強と言われた武田家は、織田信長存命中にあっけなく滅亡してしまいました。
信玄は戦国随一の智将だったかもしれませんが、所詮は「人智」です。
仏智は「宇宙意思そのもの」であり、それに逆らう者は誰人たりとも滅亡を免れないのです。