ハーバード大学が1万2000人を対象に、30年以上にわたって追跡調査した結果では、ある人が幸せを感じていると、家族や友人の幸福度が15%高まっていました。
それだけでなく、直接知らない「友人の友人」の幸福度も、10%高まります。
さらに、「友人の友人の友人」の幸福度まで、6%高まっていました。
仏法に即していうならば、あなた1人が法華経を信じることで、その功徳が社会全体に広く回向されることを意味しています。
仏界では、自分と他人の区別はありません。あなたが功徳を受けたなら、必ず国土世間全体に功徳が満ちるのです。
まして、世界で1000万人が南無妙法蓮華経を唱える今日において、一閻浮提に功徳が満ちていることは、絶対に間違いありません。
われわれ末法の衆生は、強欲で我がままです。
現世のうちに何もいいことが無ければ、仏心など出るわけがありません笑
成仏とは、功徳を受けることです。人生に満足することが成仏なのです。
仏は、諸難をはるかに上回る大功徳を受け、所願満足しているからこそ、他人に対しても自然に慈悲が生じるのです。
やせ我慢して慈悲をひねり出している仏などいません笑
戸田先生は「折伏は初信の功徳を受けてからでよい」と言われています。
体験のない信心は観念です。いかに理論に精通しようとも、真の確信に欠けます。
まずは自分の魂を救うことです。自分が成仏できないのに、他人を成仏させることなどできません。
逆に、自分が成仏できれば、国土全体が仏国土となり、自ずから妻子眷属を成仏させることができるのです。
事実、戦後の創価学会の拡大と、高度経済成長は、同じタイミングで進んでいます。
仏の元には必ず諸天眷属が供養を運んできます。そうでなければニセモノです。
成仏すれば、相対的幸福の次元においても、必ず実証が顕れるのです。
釈尊は苦行を否定して仏法を開きました。
何の功徳もないのに、やせ我慢して信心を続けるのは、ただの苦行です。小乗経にも劣る、外道の無意味な修行です。
仏道修行は、それ自体が楽しいものでなければなりません。
学会活動のために自分の生活を犠牲にすることがあってはならないのです。
牧口先生は、滅私奉公を明確に否定しています。
自分自身が満腹であれば、自然にごちそうを他人に分け与えようと思うでしょう。自分が空腹のまま、他人にだけ食べさせようとするのは偽善です。
それは尊いようですが、長続きしません。すぐに飢え死にしてしまいます。
自分自身がしっかり食べてこそ、結果としては大きな慈悲を行じることができるのです。
功徳が無いのは、すなわち成仏できていないということです。それでは自分だけでなく、誰も救えません。
その根本は不信です。
「お題目だけで功徳があるなんて信じられない」そう祈っているから、その通りになってしまうのです。
信心している以上は、誰よりも幸せにならなくてはいけません。
信心するからには、諸難が起こることは避けられませんが、それをおおいに上回る大功徳・実証を示すことが、あなたの使命なのです。
「大悪の次には必ず大善が来る」というのが、仏法の方程式です。
だからこそ仏は、障魔が大きければ大きいほど大歓喜するのです。
これが絶対的幸福境涯です。
ともかく「学会員はみんな毎年海外旅行に行っている」というくらいになれば、こちらから言わなくても、向こうから信心したいとお願いしてくるでしょう笑
仏にとっては、遊ぶことさえ折伏なのです。
功徳を受けて歓喜する姿を見せることが折伏なのです。
功徳のない信心など、誰もやりません。
戸田先生は「商売も法華経である」と指導され、実証を示すことを極めて重視されました。
少欲知足は、あくまで出家のための心構えです。在家の檀那である私たちにとっては、おおいに功徳を受けて歓喜することこそが、法華経の実践なのです。
大悪をこれば 大善きたる
大悪大善御書
諸難ありとも(後世の功徳を)疑う心なくば自然に仏界にいたるべし
開目抄