蓮祖は立宗後、松葉ケ谷の小さな草庵を拠点とされました。
とうてい寺院とは呼べない、いたって質素な庵です。
その草庵も念仏者に襲撃され、蓮祖は生涯で20回以上住処を追われています。
身延では地頭の波木井が立派な堂宇を寄進しようとしたもののそれを断り、木造の質素な庵に住まれます。
冬には衣が凍り付くほどでした。
当時の生活は、自給自足に等しいものだったといわれています。
しかし、多くの来客や弟子を安全に受け入れる必要があったこと、柱が傾いて壁が倒れてしまったことなどから、半月ほどの突貫工事で、ようやく十間四方の大坊に建て直しました。
とはいえ、他宗の寺院とは比べ物にならない小さな「総本山」でした。
華美な建築は、蓮祖の御精神に反します。
学会の会館は無駄のない質実剛健な作りですが、これは災害時の避難所として活用することを念頭に置いているためです。
隠居の身でありながら、出張所と称する豪邸で悠々自適の余生を過ごした日顕に、蓮祖の御精神が微塵も受け継がれていなかったことは明白でしょう。