池田大作全集100 316頁より
師匠といっても、正義の師匠もいれば、邪悪の師匠もいる。
邪悪な師には、従ってはならない。
役職や立場を利用してインチキをしたり、同志を苦しめる人間が出たならば、絶対に許してはならない。
厳しく責めぬいて、その悪を暴いていくのだ。
「正義の師」とは、だれか? それは三類の強敵と戦い、身命を惜しまず、妙法を唱え広めている人である。
法華経の通りに「難」を受けているかどうか。それを大聖人は、最大の眼目とされた。
ゆえに大聖人は「難を受けていない格好だけの者は、ことごとく邪な師である。難を受け切ってきた日蓮こそが、正義の師である」と厳然と宣言されたのである。
大聖人に直結して、「猶多怨嫉」「悪口罵詈」の難を受けながら、末法の五濁悪世の現代に、世界広宣流布の道を開いてきたのは、いったいだれか?
初代、二代、三代の創価の師弟しかいない。
それは誰よりも、皆さんがご存じのとおりである。
私自身のことにもなって恐縮だが、万年の未来のために、本当のことを残させていただきたい。
会員のために幹部は存在する。
それを自分が偉くなったと錯覚して、会員を手段にしたり、犠牲にする幹部が出たならば、絶対に許してはいけない。
また、断じてそのような傲慢な幹部になってはいけない。
これは池田先生自らが「師匠の定義」を明確にされた、大変に重要な、永遠に残さねばならないご指導です。
事実として、あらゆる難を乗り越えて世界に法華経を弘めてきたのは、三代会長しかいません。
身延でもなければ大石寺でもありません。まして顕正会や足軽会など、取るに足りません。
三代会長についてきたからこそ、学会はここまで発展してきました。
師が本、組織は迹です。師が千里を駆ける「駿馬」であり、組織はその尾につかまった「ハエ」です。
いかに組織を守り、役職が高くなっても、師から心が離れてしまえば、その時点で功徳がなくなるばかりか、かえって天魔の働きと化してしまいます。
中心者がそうなれば、日顕と同じ「邪師」です。
池田大作全集87 97頁より
人間をつくるのは師弟である。組織上の機構ではない。
牧口常三郎全集10巻より魔が起らないで、人を指導しているのは「悪道に人をつかはす獄卒」でないか
中心者といっても、先生が築かれた組織を「一時的にお借りしている」にすぎません。
それを、自らの実力で組織をゼロから築いたかのように勘違いするのは、ハエが「自力で千里を飛んだ」と勘違いしているようなものであり、滑稽千番です。
自らを師匠(池田先生と同格)だと勘違いし、傲慢になる中心者が現れたなら、容赦なく組織から叩き出していきましょう!