昭和44年3/1寄稿「創造性ある全体人間たれ」より
私は、これからの時代は、創造的であり、個性的であることは当然、さらに、なんでもこなしていける「全体人間」でなくてはならないと思う。
家事だけやっていればよいというものでもなければ、家庭など捨てて、職業婦人として、自分の専門だけ身につければよいというものでもない。
家事も、仕事も、政治のことも、あらゆる文化、趣味も、なんでもこなすことができ、そこで創造的な才能を発揮していくことのできる人でなくてはならない。
学会では、信心したがゆえに、あらゆることがこなせなければならなくなる。
これまで、人前で話したこともない人が、大勢の人の前で体験発表する。
消極的に受け身で生きてきた人が、大確信をもって折伏する。
さらに幹部になると、大勢の人の前で話をするのはもちろんのこと、統監の数字を扱ったり、登山の会計を担当したり、引率係になったり、ときには原稿も書かなくてはならない、本も読まねばならない。
ときには民音の例会に登場する、音楽やオペラ、バレエの解説までしなければならないこともあろう。
こうした活動の一つひとつを立派にやりきっていくことが、時代の先端をいく「全体人間」としての、もっとも理想的な鍛錬になっているのであり、同時に、時代そのものを動かす潮流を巻き起こしていることを知っていただきたい。
これまでの人間の労働や個人の技能で占められてきた分野は、どしどし機械にとってからわれるようになるであろう。
そうした科学時代に要請される人間の理想像こそ、まさに「全体人間」というべきものであると私は考えている。
この寄稿は半世紀も前ですが、時代はまさに先生が指摘された通りの方向に向かっています。
いまや、専業主婦は世界的にも特殊な生き方となりつつあります。先進国では、結婚・出産後もキャリアを磨き続けるのが当たり前です。
もちろん男性も、仕事ができるだけでなく、家事育児もできる「イクメン」が当然となっています。
AIが囲碁の世界チャンピオンを破る時代です。1芸にのみ秀でる「スペシャリスト」の居場所は、どんどん失われていきます。
例えば、自動運転やドローン配送が実用化されれば、プロの運転手はみんな失業です。ひとつの技能に依存して生きていくことはできなくなります。
こういった変化はあらゆる分野で起こりますので、生涯を通じて、常に複数の技能を習得する必要に迫られる時代になります。
仏道修行は、社会人としても最高の訓練なのです。
仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり
諸経と法華経と難易の事