新・人間革命「愛郷」より
御本尊には、無限の仏力、法力が具わっています。
ところが、唱題に励んでいても、「こんなに大きな願いは、叶いっこないだろう」などと、御本尊の力を疑っている人が、よくおります。
だめだと思いながら祈っているんですから、これでは願いが叶うわけがありません。
皆さんだって、「どうせ、あなたに頼んでもむだでしょうが、力を貸してください」なんて言われたら、絶対に協力するものかと、思ってしまうでしょう。
御本尊への純粋にして強き信の一念が、また、感謝の祈りが、功徳を引き出していく要諦になるんです。
若き宝友へより
木を植えても、すぐに大きくなるものではない。
大切なことは、祈りは「叶うまで続ける」ことである。
かりに具体的な結果がすぐに出ない場合でも、祈り続けた人は、何かの時に、結果として祈り以上の現証があらわれたり、また大きく守られていくのである。
仕事のことを祈ったとしても、それだけでなく、より広く、大きく、人生万般に渡って、幸福の方向へと軌道修正されていく。
あとから振り返って、「これでよかったんだ」という所願満足の自分に、必ずなっていくのである。
たとえ一時は、祈りが叶わないように見えたとしても、徹して祈り抜くならば、必ず一番いい方向に行く。全部、意味がある。
魔の根本は「不信」だとされています。
つまり、お題目の力に勝手に制限を設けて、功徳の限界を決めつけてしまう、諦めの生命です。
この宇宙そのものが、南無妙法蓮華経のリズムから生じているのですから、本来不可能などありえません。
凡夫には想像もつかない「祈った以上の」最高の結果が出るのが、お題目の功徳です。
確かに、「死んだ家族を蘇らせてほしい」という祈りは、そのままの形では叶わないでしょう。
しかし、本当に蘇ったら、ゾンビになってしまいます笑
これでは本人も、あなた自身も、かえって不幸になってしまいます。
そんな場合には、亡くなったご家族は、あなたのすぐ身近に生まれてきてくれます。そして、家族同然の深い付き合いをするようになります。もちろんあなた自身の子どもとして生まれてくることもあります。
宇宙のリズム、道理に則った祈りであれば、時間がかかる場合があるにせよ、必ず実現します。
そう確信してお題目を唱えることが、不信を破る要諦なのです。