同志の身に不幸が降りかかると、すぐ
「活動をサボっているからだ」
「彼は祈りが足りない」
というように陰口を叩く学会員(特に幹部)は多いのですが、これこそ魔に破られた姿です。
大聖人は、末法の一切衆生を救うために、久遠元初において、あえて流罪の宿業を背負い、凡夫の身に生まれることを誓われました。
同様に、牧口先生は、獄死の宿業を背負われました。
戸田先生も、早死の宿業を背負われました。
池田先生も、何の罪もないのに、日本中から数知れない悪口雑言を受けてきました。
生老病死の苦しみから自分だけ逃げるのではなく、衆生のためにあえてそれを背負うのが、仏なのです。
逆にいうと、自分だけ宿業から逃げる(魔が起こらない)のは、仏ではないのです。
我々も地涌の菩薩である以上、「末法の衆生を救うために、あえて重い宿業を背負う」と、久遠元初に誓いを立ててきています。
したがって、不幸が降りかかることは避けられません。
同志が宿業と闘っているのは、まさに地涌の菩薩であることの証明であって、断じて信心が足りないからではありません。
第六天の魔王は、広布のリーダーを狙い撃ちしてくるものです。
今、あなたがどんな宿業を背負っていようと、決して卑屈になることはありません。
貧困であれ、病気であれ、使命を果たすために必要だから、あなたはその姿に生まれてきたのです。
久遠元初の誓いを思い出すことが、宿命転換であり、一生成仏なのです。