今の創価学会の最大の問題点が「指導激励が形式になっている」ことです。
あなたも、激励を受けたものの、分かり切った話を聞かされるだけで、全然歓喜を感じられなかったという経験を持っているはずです。
特に、大きな悩みを抱えている時、同じような悩みを乗り越えた経験のない幹部に「祈れば必ず解決する!」と言われても、説得力がありません笑
間違ったことを言われているわけではないのに、なぜか心に響かないのです。
要は「悩みが解決しないのは、君の祈りが足りないからだ」という内容の激励になってしまっているわけです。
これは激励ではなく、ただの説教です。
説教されて元気の出る人はいません笑
かえってやる気がなくなります。
そもそも、自分自身の悩みの解決を祈っていない当事者など、いるわけがありません。祈らずにいられるでしょうか? 誰だって死に物狂いです。
もちろん、どんなに祈ってもこれで十分ということはありえないので、「まだ祈りが足りない」という指導も、間違いではないでしょう。
ただ、それを第三者が「上から目線で」指導する資格は無いはずです。
激励の根本は、メンバーのために必死で祈ることです。
日蓮大聖人は、弟子が悩んでいると「頭が割れんばかりに」解決を祈られました。
祈らずに激励するから、形式になってしまうのです。
「君の悩みが解決するまで、僕からも毎日お題目を送ります!」
本当は、それだけで十分なんです。
もちろん、本人の悩みは本人が祈ることが基本です。
しかし、
「君の悩みなんだから君が祈りなさい」
と突き放すだけで、誰も題目を送らないのであれば、学会の組織などいりません。
「水魚の思」です。同志の悩みを、我が悩みとして祈っていくところに、信心の血脈があります。
突き放すことは、決して信心の激励ではないのです。
もちろん、厳しい指導が必要な場合もありますが、それもあなたが彼のために祈り続けていることが前提です。
祈る気がないなら、激励などしないほうがマシです。
「これだけお題目を送っているのに、まだ解決しないのは、君自身の祈りが足りないからだ!」
そう断言できるほど、同志のために祈っている幹部が、どれだけいるでしょうか?
お題目を忘れれば、学会活動ですら魔として働いてしまうのです。
総じて日蓮が弟子檀那等(でし だんな ら)・自他彼此(じたひし)の心なく水魚の思(すいぎょのおもい)を成して異体同心(いたいどうしん)にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処(ところ)を生死一大事の血脈(しょうじいちだいじ の けつみゃく)とは云う(いう)なり
生死一大事血脈抄