蓮祖真筆本尊では、帝釈は全て「釈提桓因(しゃくだいかんにん)」と記されています。
これはどちらもヒンドゥー神話における神々の王インドラを指しており、意味は全く同じです。
興師は釈提桓因をより日本に定着した「帝釈」の名称に置き換えられ、以後は富士の慣例としてそれが続いています。
もちろん「真筆と同様、釈提桓因を用いるべきではないか」という意見もあるだろうし、そうしても間違いではありません。
ただ、そうした表面的な表現に固執すること自体、御本尊と生命が一致していない証といえます。
梵天帝釈は天界の上首として表現されており、極論すれば日天月天明星天魔王も含めて「天界」だけで表現しても、意味の上では、間違いではないのです。
ただ、それでは方程式のようにあまりにも味気ない御本尊になってしまうので(笑)「文学的表現」として諸天の名称を配しているのです。
そこには個々のセンスが反映されるので、歴代法主によって個性が出ます。
文字曼荼羅は書であり画であると同時に、詩であり文学でもあるのです。