元学会本部職員の3人組が内部告発して、話題になっています。(現在は3人とも解雇され学会を除名されている)
今のところ彼らのブログにざっと目を通しただけなのですが、彼らの言動には首をかしげざるを得ない部分が多々あります。
事の発端は、彼らが学生部幹部だった時代の体制について、後任幹部に「暗黒時代」と批判されたことなのですが、具体的に何を指して批判されたのか、ブログを読んでもよく分かりません。
先輩幹部を名指しで批判するのは異例であり、それなりのことがあったはずです。
ここは彼ら自身の名誉の根幹に関わるはずの部分なので、長くなっても誤魔化さず明確に記すべきでしょう。
また、原田会長は最初彼らからの手紙を受け取っているので、執行部が全く対話に応じないという批判も極論でしょう。
同じ内容の手紙を何度も渡されても、受け取り拒否されるのは当然です。
経緯はともかく、彼らは現在本部職員としての雇用を取り戻すため、同志から3000万円も借金をして学会本部と裁判しています。
元職員という立場を利用して、自らは仕事もせず、「個人的な雇用回復のために」同志から借金して裁判費用としているのでは、組織利用と言われても仕方がなく、除名もやむを得ないでしょう。
彼らは「中から本部を変えていく」と主張していますが、仮に職場に復帰できたとしても、一職員の立場で本部全体の変革ができるとは、現実的に思えません。これは詭弁に過ぎないでしょう。
もし、本気で次の執行部が自分たちだと思っているなら、それこそ現実離れした妄想です。
戸田先生は会長就任後も午前中は生業をされていました。バイトすらせずに、借金生活で執行部批判に専念している3人組は、自らの甘えを自覚すべきです。
「別の職に就けば本部復帰できなくなる」という主張も理解できません。裁判に勝ったら仕事を辞めて復帰すれば済むことです。
彼らがすべきことは、まずは定職に就き、同志への借金を返すことでしょう。
個人で裁判を起こすことは勝手ですが、同志を巻き込むことは避けるべきです。
彼らは原田会長はじめ執行部の退陣を求めていますが、これも意味がありません。原田会長はすでに75歳であり、明日倒れても不思議ではない年齢です。現執行部はどのみち早晩勇退することになります。
もし3人組が言うように、本部全体が官僚主義に蝕まれているとするなら、どうせ同じタイプの人間がトップに就くはずなので、頭だけ挿げ替えても無意味でしょう。
退陣要求は、とうてい合理的な改革案とは言えず、感情的な逆恨みに過ぎないと思います。
ブログに御金言が全然出てこないことにも、強い違和感を覚えます。本人たちに悪意は無いのかもしれませんが、
法ではなく組織が根本になっている印象を受けます。
だから、本部に復帰しないと信心できないという結論になってしまうのでしょう。典型的な「組織人間」です。
もちろん彼らの言動全てが悪だというのではなく、こういう前代未聞の事態を招いた本部にもスキがあったことは確かでしょう。
そもそも、信心の根本ができていない彼らを雇用したことが間違いだったのです。
もし3人組の言うように、今の学会が、幹部に意見しただけで役職解任や除名されるような組織だとしたら、それでも構わないではないですか。
もともと誰もが、組織から頼まれて嫌々受けた役職です笑
お願いして役職をもらった人など、ほとんどいないでしょう。
お役御免になれば、折伏や教学のための時間も取れます。これは大功徳です笑
役職の有無と成仏は無関係です。だったら無いほうが得です笑
まあ、そう簡単に解任してもらえるなら、誰も苦労はしてませんが。
三類の強敵が用いる弾圧の手段に「遠離塔寺」といって、寺から追い出すやり方があります。事実、三代会長は全員登山停止処分を受けています。
この法理に従うなら、
悩乱した幹部に信心の組織から遠ざけられることは避けられないと、最初から覚悟しておくべきです。
最悪、除名されたところで、御本尊を没収されるわけでもありません。
御本尊は貸与ではなく「授与」されたものですから、変換する義務はありません。
その上御書や池田大作全集が手元にあれば、信心するのに何の不自由があるでしょう?
こんなものは法難のうちにも入りません。
最初から、組織や役職にあなたを成仏させる力などありません。お題目さえ挙げられれば十分です。
SGIには今でも、組織が無い中で懸命に信心している同志がたくさんいます。
組織が無いと信心できないなどと言うのは、甘えです。そういう人に限って個人折伏や地道な御書研鑽を怠っているものです。
不当な除名なら、破和合僧で罰を受けるのは指示した幹部の方です。自らの信心に恥じるところがないなら、堂々としていればいいのです。
真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の強敵決定せり。されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし
如説修行抄
追記
もちろん、この記事だって鵜呑みにすべきではありません。
3人組が正しいのであれ、本部が正しいのであれ、89歳の師匠が裁定を下してくれるのを待っている時代ではありません。
1人ひとりが、御書を根本に、自分自身で正邪を判断すべき時代が来ているのです。