法華経の智慧より
妙法を行じ、妙法と一体になるとき、初めて「生も自在」「死も自在」の境涯になる。
「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯になる。
池田大作全集68 267頁より
御本尊への信を貫き通した人は晴れ晴れとした十方の世界を見下ろすような境涯となる。
喜びでいっぱいの死である。
歓喜極まりない感動の死なのである。
この信心をして、歓喜の生を送るのは、まだ容易です。
肝心なのは、死を歓喜できるかどうかです。
死が恐怖でしかなかったら、常に「死にたくない」と怯え続けながら一生を送らなくてはなりません。
それでは、成仏の境涯とは言えません。
死に歓喜できなければ、結局、心の底から生に歓喜することはできないのです。両者は表裏一体です。
「いつ死んでもいい」そう思える境涯になることが成仏なのです。
具体的には、使命を全うし抜くことが、悔いなく臨終を迎えるための条件となります。
この信心を貫けば、「早めに死んでよかった」「いい時に死ねた」「いい死に方ができた」そうとすら思えるようになります。
格闘家のヒクソン・グレイシーは、18歳の長男を事故で失っています。
しばらくは、ショックで抜け殻のように過ごす日々が続きました。
そんなある日、たまたま出会った男性に「自分の息子は一生寝たきりだ」という話を聞かされます。
そのときヒクソンは、長男が老いや病の苦しみを知ることなく、最後の瞬間まで健康に生きられたことを、初めて感謝できたそうです。
これも、仏界の一分といえるのではないでしょうか。
特に家族が早く亡くなった場合、残された遺族がその死に「意味を与えていく」ことが極めて重要になります。
戸田先生は生涯の誓願とされた75万世帯達成の直後、58歳で亡くなられています。
平均から見れば短い生涯かもしれませんが、すでに牢獄で体の隅々までボロボロになっていた先生は、いったん大宇宙に帰り、健康な身体で別の星に生まれ、広宣流布する道を選ばれたのではないでしょうか。まさに自由自在です。
三千大千世界には無限の国土があり、それぞれが仏の出現を待望しています。
宝塔から三千大千世界を見渡せば、一閻浮提(地球)などゴマ粒のようなものです。
たったひとつの国土に偏執して、ほかの国土を見捨てる仏などいません。
ですから仏は必ず来世での使命についても祈っているはずです。
仏にとっての死は、新たな国土への旅立ちであり、希望に満ちています。
死の恐怖を歓喜に変えられるのは、この仏法しかないのです。
ただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いてで十方をみるが・ごとくうれしく、とくにしぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん
妙信尼御前御返事(御書1480頁)