法華経の智慧より
智慧があっても無慈悲では、生命は閉ざされている。
本当の智慧ではない。
慈悲があっても智慧が無く、愚かであれば、自分も人も救えない。
救えないなら本当に慈悲があるとは言えない。
人間は、慈悲と智慧のどちらかに偏る傾向があります。
無慈悲は論外ですが、気を付けなくてはならないのが智慧の軽視です。
真剣な祈りは、必ず具体的な智慧・実行として結実します。
自らの生命力を引き出すための祈りだからです。
「御本尊を拝んでいれば何とかなる」というのは他力本願であり、法華経の行者の祈りではありません。
仏の慈悲も智慧も、全てあなた自身の胸中にしか存在しないのです。