※新・人間革命「福光」より
広宣流布というのは、1万メートル競走のように、ゴールがあって、そこにたどり着いたら、それで終わるというものではない。
むしろ、「流れ」それ自体であり、常に、いつの時代も青年が先駆となり、原動力となって、さらに「新しい流れ」を作り続けていく闘いなんです。
※青春対話より
広宣流布とは数ではなく「流れ」です。永遠に流れていくものです。
ある時がきて、「これで、広宣流布が終わった」というものではない。
それでは魂が消え、人間革命ができなくなってしまう。
「いつ、こうなったから広宣流布」というのは、譬えでは言えるものだが、決まった形のことではない。
池田会長講演集第3巻より
広宣流布とは決してゴールインを意味するものではない。
大聖人は鎌倉時代を指しても広宣流布の時であると断言されました。
広宣流布の流れは、悠久にとどまるところがない
広宣流布の定義は、確かに定まっていません。
少なくとも人口の過半数が法華経に帰依または理解しなくてはならないという説が主流ですが、そうなっても、もちろん他宗の折伏は続ける必要があります。
また、退転者も出ますので、ここまでやったから完了ということはないのです。
そしてまた、常に青年が1人立つところから、広宣流布は始まります。
大聖人は満31歳で立宗を宣言されましたし、弘教の中心となった弟子たちも常に青年でした。
池田先生は26歳で参謀室長となり、実質的に広宣流布の総司令官となっています。
一切は青年にかかっているのです。