古来、僧侶への供養は、在家にとって主要な仏道修行のひとつだと考えられてきました。
しかし日蓮仏法では、在家も題目を唱え、折伏を行じます。
したがって、出家在家を問わず、法華経の行者に供養すれば、大果報を得ると考えられます。
戸田先生は、事業が苦境にあり、自らの食費にも事欠く中で、青年たちを自宅に招いて手料理を振舞いました。
大好きなお酒も我慢していた戸田先生を見かねて、池田大作青年はオーバーを質に入れ、お酒をプレゼントされたそうです。
池田先生はたびたび、ポケットマネーをはたいて同志を激励されてきました。まさしく、全身全霊の激励です。
ここに、今日における供養の模範の姿があるのではないでしょうか。
今、激励に歓喜が無いのは、口先だけ、形式になってしまっているからではないでしょうか。
たとえば、病苦や経済苦のメンバーを訪問して「君はまだ祈りが足りない」と指導するのは、正論かもしれませんが、指導される側にとっては、単なるお説教です笑
百万言の指導より、ささやかなお見舞いを贈るほうが、ずっと心に響くかもしれません。
池田先生だったら、困窮している同志を目の前にして、たとえジュース1本でも差し入れせずにいられないはずです。
「金品のプレゼントは同志を甘やかす」という考え方もあるかもしれませんが、それを言うなら財務そのものが、学会本部を甘やかすことになってしまいます。
本部職員だけに供養を受ける権利があるという考えは、大変な差別主義であり、仏法とは何の関係もないカルト思想です。
最高幹部に供養を受ける権利があるのなら、全会員に同様の権利があります。
学会員は、お互いに供養し合うことで、みんなが大功徳を受けるべきなのです。
もちろん状況はケースバイケースなので、一概なことは言えませんが、あなたに現在余裕があるならば、苦境の同志に激励の品ひとつプレゼントしないのは、「仏への供養をケチっている」ことになるのかもしれません。
少なくとも、上から目線で指導するだけでは、心に響かないことは明らかでしょう。
もちろん、ルールは守らなくてはなりません。
役職を利用したお金の貸し借りや、組織で飲み会を開催することは禁止されています。
これらは、同志への供養とは別次元です。
同志を経済的に支えたいというのであれば、お金を貸すのではなく、あげましょう。
お酒も、個人的におごってあげればいいのです。
同志への供養は、あくまでも個人的にすべきものです。
財務だって、組織単位ではなく、個人が直接本部に振り込みますよね?
「人間革命」には、3人の幹部が合同で戸田先生にタバコ代を差し上げた時、厳しく叱られたシーンがありました。
これは、組織で一律にお金を集めることに通じるからです。
メンバーの経済状況は様々です。リーダーにとっては小さな金額でも、あるメンバーにとっては大きな負担かもしれません。
しかし、1人だけ断るのも難しいので、結局は無理をさせることになってしまいます。
活動に慣れると、つい何でも組織で行動するクセがついてしまいますが、激励の根本は、あくまでも1対1の関係にあることを忘れてはいけません。