日蓮大聖人は、立宗宣言の直後より、地頭の東条景信から命を狙われました。
その時、兄弟子の義浄房・浄顕房が、密かに脱出の手伝いをしました。
大聖人はこの恩を「天下第一の法華経の奉公」と讃えられ、2人の成仏は間違いないと仰せになりました。
立宗の直後に大聖人が殺されていたなら、法華経はその時点で滅びていたことになります。
だからこそ、大聖人はここまで2人を称賛されたのです。
大聖人の御生涯は立宗から入滅まで、命に及ぶ大難の連続でした。
かろうじて命拾いしても、衣食にも事欠く生活が当たり前でした。
大聖人はこれを「過去世の宿業のゆえ」と御謙遜されていますが、当然この宿業は、願兼於業で望んで背負われた仮の宿業です。
そもそも、「仏の命を救う」功徳を積むためには、仏が殺されそうにならなくてはいけません。
つまり仏は、弟子や同志に大功徳を積ませるため、あえて大難を引き受けるのです。
仏が皆、何不自由ない裕福な姿だったら、衆生は仏に供養する気を失ってしまいます。
だからこそ、仏はあえてみすぼらしい凡夫の姿でこの世に出現するのです。
学会員は「貧乏人と病人の集まり」と言われてきました。
だからこそ、同志が支え合い、供養し合って、みんなで大功徳を受けてきたのです。
しかし、豊かな時代が続き、同志間にも支え合いの精神が失われつつあります。
人間関係が、「学会活動以外はお互い深く関わらない」というような、ドライな関係になってきています。コミュニティとしての機能が喪失しつつあります。
これが、大きな間違いなのです。
池田先生は、小さな商店を自営している同志を激励に訪れた時、ポケットマネーで店の品を全て買い取られたことがありました。
私生活に渡って徹底的に支え合っていくのが、異体同心の団結の姿です。
ただ「まだ題目が足りない」と説教するだけの激励など、本来激励とは呼べないのです。
あなたの周りにも、病苦や生活苦に直面している同志が必ずいるはずです。
彼は、あなたに大功徳を積ませるために、あえて大難を引き受けてくれたのです。
学会本部に財務するのと全く同じ気持ちで、「ありがたい、ありがたい」と感謝しながら、激励の品を「供養」してあげてください。
本部職員に供養を受ける権利があるならば、全学会員に同じ権利があります。
それを「同志を甘やかしてはいけない」などといって、供養をケチるのは、法華経の行者に失礼です。せっかくの功徳を、自ら消してしまうことになります。
仕事の紹介でも、異性の紹介でも構いません笑
できる限りのことをしてあげてください。
ただしもちろん、組織を動員してはいけません。あくまで、あなた個人で供養しましょう。
御供養の功徳は、生々世々に渡り、永遠に続きます。また、そう確信して疑わないことです。