ネット上にはよく、
「学会の本尊はニセ物だから拝むとむしろ罰を受ける」
という、日蓮正宗信者の戯言が見られます。
学会の御本尊は、日蓮正宗第二十六世御法主である日寛上人が写書されたものであり、
「もともと日蓮正宗の中で信仰されていた」御本尊です。
浄圓寺16代住職・日證のために与えられた御本尊ですが、言うまでもなく、もともとは一閻浮提総与の御本尊をそのまま写書したものですから、誰が祈っても功徳はあります。
また、添え書きの削除を「御本尊の変造」などと主張していますが、もともと添え書きは添え書きに過ぎず、御本尊そのものを「写書」した文ではありません。
第一、正宗寺院においても、「願主 池田大作」の添え書きを修正した御本尊をそのまま御安置しています。
学会がやれば変造で、自分たちがやるのはかまわないというのは、あまりにも幼稚な論理です。
文字のかすれを修正したことを変造呼ばわりするに至っては、くだらなくて反論する気にもなりません。
大石寺にある本門戒壇之大御本尊は、大聖人の御真筆に別人の手で彫刻が加えられていますが、それもニセ本尊になるのでしょうか?
(確かに、日顕は偽物だと言っていたようですが)
大聖人は、御本尊の修正を御在世当時から許可されていたのです。
何より、数千数万年の間には、板でできた大御本尊も経年劣化が免れませんが、その場合も大石寺では決して補修せず、劣化するに任せるのでしょうか?
大切なのは御本尊に描き顕された「日蓮大聖人の魂」であって、手段・材料など枝葉の問題です。
紙だろうと木材だろうと石材だろうと金属だろうとCGだろうと、曼荼羅それ自体が妙法を正しく顕しているならば、それは本物の御本尊なのです。