広宣流布は様々な次元で論じられる必要がありますが、絶対に忘れてはならないのが「念仏撲滅」です。
「立正安国論」に象徴される通り、蓮祖の御生涯が、とりわけ念仏撲滅のために捧げられたことは明白です。
それは、鎌倉時代においてすでに念仏が「広宣流布」していたためです。その辛気臭い哀音が、国土世間全体を蝕んでいました。
世界史上、蓮祖ほど念仏を憎まれた人物は存在しないでしょう。
立宗以来1日として、念仏撲滅を祈られなかった日はなかったはずです。
もちろんその憎しみは、念仏者を苦しみから救わんがための慈悲と表裏一体です。
ならば、我ら弟子一同が念仏をおおいに憎み、日本国から根絶させる以外の道はありません。
いくら創価学会が大きくなっても、一方で盛んに念仏が唱えられているなら、とうてい蓮祖の御遺命が果たされたとは言えません。
法華経は元来「破権」のために説かれた門理です。どこまでも「攻撃」です。
青年は、間違っても念仏をなんとなく黙認していてはなりません。念仏を責めない南無妙法蓮華経など、何の価値もありません。宝剣を敵に向けず、空を切って自己満足しているようなものです。
青年ならば堂々と「私ほど念仏を憎んでいる者はいない!」そう宣言するのが本当です。
念仏撲滅も祈らないような臆病な信心では、とうてい「日蓮と同意」とは呼べず、功徳など出るはずもないのです。