新・人間革命「新世界」より
信心をしていないのに、学会をよく理解し、協力してくれる。これほどありがたいことはない。
みんなは、ただ信心しているか、していないかで人を見て、安心したり、不安がったりする。その考え方は仏法ではありません。
信心はしていなくても、人格的に立派な人はたくさんいる。そうした人たちの生き方を見ると、そこには、仏法の在り方に相通じるものがある。
逆に、信心はしていても、同志や社会に迷惑をかけ、学会を裏切っていく人もいます。
だから、信心をしているからよい人であり、していないから悪い人だなどというとらえ方をすれば、大変な誤りを犯してしまうことになる。
広いすそ野を持つ大山は容易に崩れないが、断崖絶壁はもろく、崩れやすいものだ。同様に、盤石な広布の建設のためには、大山のすそ野のように、社会のさまざまな立場で、周囲から学会を支援してくれる人びとの存在が大切になってくる。
仏法の教えによると、末法の世に生まれた人は、信心しているか否かに関係なく、誰もが地涌の菩薩ということになります。
もし、学会員にしか地涌の使命が無いのなら、どんなに折伏しても地涌の菩薩は増えず、折伏はムダな修行ということになってしまいます。
牧口先生は57歳まで未入信でしたか、当然、久遠元初からの地涌の菩薩です。
今現在信心しているかどうかなど、関係ないのです。
未来においてお題目を唱えるのなら、誰もが地涌の菩薩です。その使命が無ければ、末法に生まれてきません。
友を、地涌の菩薩だと信じるところから、折伏が始まるのです。