今の学会活動家に最もよく見られる「退転」が、お題目より活動根本の信心になっているパターンです。
会合や報告が忙しくて題目は1日5分、ヘタをすると唱題会のときだけで、実質何も祈っていないという、本末転倒のパターンです。
「南無男子部」
「南無創価班」
「南無選挙戦」
「南無打ち出し」
「南無中心者」
などなど、このパターンはいろいろあります。
こうした「組織魔」は、祈りを忘れると必ず競い起こってきます。
この魔の恐ろしいところは
忙しい幹部しか成仏できないという意識が芽生えがちなところです。
「彼は男子部卒業まで地区リーダー止まりだったし、残業で会合もよく欠席していたから、たいした信心ではない」
「創価班や部長を経験しなければ、男子部で闘ったとは言えない」
このような意識は、幹部には少なからずあると思います。
これは、お題目より役職を重く見る思想であり、もはや日蓮仏法ではありません。
そういう幹部ほど、役職を外れれば信心まで失ってしまうものです。
忙しくてつい祈りを忘れてしまうのも、魔の働きなのです。
言われるとおり何でもかんでも役職を受ければいいというものではありません(笑)
兼任しすぎると全て中途半端になってしまいます。1人で抱え込まないことです。
立正安国論に
「蒼蠅驥尾(そうようきび)に附して万里を渡り碧蘿松頭(へきらしょうとう)に懸りて千尋を延ぶ」
の有名な御文がありますが、ここで大聖人が駿馬に例えられているのは法華経であり、断じて法華宗(当時の組織)ではありません。
組織とて、法華経という駿馬の尾につかまった「ハエ」に過ぎないのです。
組織が大きくなると、「組織力」に南無する人間が増えてきますが、学会は正法を行じているからこそ偉大なのであって、大きいから偉大なのではありません。
大組織に所属して自分まで偉くなった気がするのは、修羅の生命です。
活動そのものは、決してお題目の代わりにはなりません。
組織も役職も方便です。
組織崇拝・集団崇拝は、断じて法華経ではありません。修羅道です。
そんなニセ幹部が何百万人集まろうが、無意味です。
特に、10年も折伏が決まっていないような幹部は要注意です。
「活動」は忙しくても、「信心」が空転している証です。
学会の訓練を正しく受けていれば、折伏が上手くなることはあっても、下手になることはないはずです。
年々折伏が決まりやすくなるのが当たり前です。
にもかかわらず、若い時より折伏できなくなっているとしたら、信心の軌道から外れていることは明らかです。
お題目を一遍唱えると、ただちにわれら凡夫の身に大聖人の生命が顕れ、梵天帝釈が宿ります。
南無妙法蓮華経は、第六天魔王を斬ることができる、唯一の利剣です。
頼るべきは、組織ではありません。
広宣流布は組織力ではなく、あなたの祈りによってのみ進むのです。