「大善生活実証録」には、戦時中の創価教育学会の総会の様子が収録されています。
その中では、当時の幹部が侵略戦争を肯定賛美する発言が記録されています。
野島辰次理事
「大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国なればこそであります」
岩崎洋三理事
「大東亜共栄圏を戦ひ取る迄がんばり抜く」
本間直四郎理事
「断じて勝つの一手あるのみである」
軍部の厳しい目が光る中、公に戦争を否定する発言などできようもなかったのは確かでしょう。
ただし、牧口会長の講演には、戦争についての言及は一切見られません。
立正安国論には「兵奴の果報」といって、過去世の謗法が出兵戦乱という罰をもたらすと説かれています。
牧口先生もその説に従われ、勝敗生死を問わず、徴兵あるいは戦争そのものが罰であると会員に説かれていました。
したがって広宣流布すれば「兵奴の果報」に縛られた民はいなくなり、必然的に戦争もなくなります。
戦後、学会の発展によって日本が平和な時代を実現したことは、明白な事実です。
戦争は全員が敗者です。平和のみが唯一の勝利なのです。
牧口先生は、幹部たちにも内々にこの原理を説かれていたはずです。
しかし彼らは師匠の教えを素直に受け入れようとせず、安易に時流に迎合し、「戦争に勝つことが功徳なのだ」という間違った教えを会員に説いていたのです。
戦時下に折伏を進めて組織を拡大するなら、そう宣伝したほうが効果的だったかもしれません。
しかし、組織拡大を優先して、法そのものを曲げてしまうのでは本末転倒です。
当時の組織が戦争遂行の道具と化し、会員を戦争に駆り立てる方向に進んでいたことは、師匠にとって耐え難い苦悩だったでしょう。
だからこそ師匠は、組織の壊滅を覚悟のうえで、あえて国家権力との対決を選ばれたのではないでしょうか。
このまま不純な幹部が指導を続け、会員をおかしな方向に導くくらいなら、いっそ一度組織を潰し、真正の弟子だけで再出発したほうが望ましいと考えられたのでしょう。
御在世当時も、竜の口の法難で当時の信徒はほとんど退転したといわれています。その中で四条金吾など、ごく一部の真正の弟子のみが残り、より純粋な法華衆として再出発しました。歴史は繰り返されます。
実際、当時の幹部はほとんど退転し、戸田先生のみが戦後に組織を再建されました。
その折に組織の名称を「創価学会」に変更したのは、軍部に迎合した過去の学会と完全に一線を画すという、強い決意が込められているのではないでしょうか。
やがて、過去の幹部もぞろぞろと復帰してきましたが、戸田先生は彼らのこれまでの功労を認めず、表舞台に立つことを許されませんでした。
信仰は自由ですが、時流でふらふらと組織についたり離れたするような者たちに、青年の指導を任せることなどできません。
まして、先輩面で威張られるようでは、いられてもかえって困ります。
牧口先生、戸田先生の、当時の幹部に対する処遇は、一見むごいようにも思えます。
しかし学会の役職というのは、もともと過去の功労とか温情で与えられるべきものではないのです。
不適格な幹部が増えてきたら、心を鬼にして解任追放するのが、指導者の仕事です。
事実、戸田先生が人生の最後に行った人事は「幹部の一斉解任」でした。
最悪の場合には、組織の「解散」すら覚悟しなければなりません。その覚悟がなければ、信心の組織の指導者たる資格はないのです。
和合僧の組織とは、利益団体でも親睦サークルでもありません。ただ法を純粋に弘めるためだけに存在しているのです。