量子力学では、人間の観察によって量子の性質が変化してしまうことが確認されています。
光子は、観察していないときには波です。
しかし、人間が観察しようとしてカメラのスイッチを入れた瞬間から、粒に変化してしまいます。
つまり、ミクロの世界では、人間の「光子を観察したい」という一念が、物質そのものを変えてしまうのです。まさに色心不二です。
同様に「南無妙法蓮華経」は物理的には誰が唱えても空気の振動ですが、どのような一念で唱えるかによって、結果は全く異なります。
一念が「不信」であったり「組織利用」であったり「悪との妥協」であれば、どれほど口先で題目を唱えようが、梵天帝釈は動きません。
また、和合僧の中にそうした輩が紛れ込んでいれば、やはり功徳は相殺されてしまいます。
ゆえに、悩乱の輩を見破って追放することが、和合僧を守ることになるのです。
法華経の智慧より
日寛上人が仰せのように、題目には「信の題目」と「行の題目」がある
同じように題目を唱えていても(唱えるのは「行の題目」に当たる)御本尊の功徳を「確信」しているかどうかで、結果は変わってくる。
この「信の題目」が大切なのです。