仏法対話の中で最も説明に苦労するのは
「印刷されたコピーの本尊に力があるわけがない」
という反論でしょう。
確かに、オリジナルの真筆ならともかく、コピーは単なる紙に過ぎないような気もします。
ここで「破折」されたままなら、あなたの信心も壊されてしまいます。
御本尊をただの紙と信じていれば、やはり紙としての働きしか成さないからです。
人間がエンジンをかけなければ、車もただの鉄くずです。それと同じです。
無量義經には「分身散体」の法理が説かれています。
要するに「オリジナルとコピーは全く同じ力用を持つ」という原理です。
仏法に限らず、全ての宗教に共通する考えであり、だからこそ世界には様々な仏像や神像、神札などがあふれているのです。教祖様がいちいち全部手作りしてません(笑)
弘安二年の御本尊の場合、蓮祖の真筆に弟子が彫刻を入れているので、
その時点でオリジナルはこの世から消滅しています。
昭和のマンガでいうと、原作者は下書きのみで、ペン入れと着色はアシが全部やりました、みたいな話です(笑)
それをニセモノとするなら、富士系の本尊は全て「ニセモノのニセモノ」となってしまいます。
またしてもマンガのたとえでいうと、
オリジナル原稿(データ)でも、それを製本印刷した完成作品でも、面白さに全く変わりはありません。
「ヤンジャンに掲載されている『推しの子』は原データのコピーだからニセモノだ!」
などという狂った読者はいないでしょうwww
また、
仮に原稿が紛失しても、作品が面白くなくなるわけがありません。
オリジナルが現存しているかどうかと、作品の価値は、何の関係もありません。
御本尊の本質は「素材」ではなく、あくまで記された「情報」です。
ゆえに、身延が大昔から騒いでいる本尊偽作論など、典型的な論点反らしの詭弁であり、仏法上「全く」意味がないのです。
また、自宅に御本尊がご安置されている以上、いちいち大石寺まで出かける必要もないのです。